変身
「カフカの短編小説。高校生の頃に読んだことがあるが、今回、再読してみたのだが、我慢できずに中断してしまった、なんというか、この設定は確かにアイデアなわけだが。」
断食芸人
「カフカの短編小説、なぜこれを読もうなどと思ったかと言えば、車谷長吉がその名を書いていたからだが、たぶん高校生の頃に読んだことがあったと思う。車谷は、きっとこの登場人物の生き方に惹かれるのだろうね。」
浅草葬送譜(***)
「色川武大の短編小説で、短編集『あちゃらかぱいッ』の中の1編で、やはり浅草で活躍した、と言ってもエノケンなどの一流になりそこねた男のことを描いている。」
あちゃらかぱいッ(*)
「色川武大の短編小説。恥ずかしながら、色川武大作品を初めて読んだが、これは小説と言うよりエッセイに近い感じがする。なぜ色川武大を読もうなどと思ったかと言えば、車谷長吉がその名を書いていたから。さて本作では、戦前戦中戦後と、多感な時期(中学生のころ?)に、享楽的な演芸などの聖地?浅草に入り浸っていた色川氏が見聞きした芸人達の有様を、さも見てきたかのように描いてはいる。」
インフル病みのペトロフ家(****〜***)
「ちょっと、とっ散らかっていて(まあ敢えて)関係が分かりにくくて混乱させられる(まあ敢えて)のだが、不条理劇の一種が生み出される土壌が、やはりロシアにある、と言うことであるが、それを言ったら今の日本にも、それはあるのだが、ほとんどの愚かな大衆は、それを変えようとは思わないんだなあ、愚かだから。それにしてもソ連が崩壊してロシアになったってことは、共産主義が終わったことだと認識していたが、彼の国の中身は変わっていないということか。」
キャメラを止めるな
「うーん久しぶりに、観なきゃよかった、と思う映画を観てしまった。これなら元ネタの方を2度、観た方がずっとよかった。」
業柱抱き(*)
「車谷長吉の、これは図書館の分類によれば、エッセイ集。914は、評論・エッセイ・ 随筆ということらしいが、まさにそう言って差し支えない、ああ、出版社から書いて、と言われて、金のために簡単な短文を書いたんだなあ、と思わせられる作品もあれば、表現生に優れた、これはもう小説と言ってもよいのでは?という作品まで、ごちゃ混ぜ集。ただ、後半はもう飽きて飽きてしまってすっ飛ばしてしまった、すまん車谷。しかし、本を913にするか914にするかは、誰が決めるのだろうね。」
幸福(*)
「映像文化ライブラリーで、ジョージア(グルジア)映画祭の1本。2009年の作品。ジョージアの田舎からも、ヨーロッパに出稼ぎに行くんだなあ。本当にEUとは、一面的には壮大な理想の実現または実験なわけで、ドイツに大きな果実をもたらしたわけだが、一方では、、、」
ブバ(**)
「映像文化ライブラリーで、ジョージア(グルジア)映画祭の1本。1930年の作品。農業に従事する田舎の人々の生活を、やはりどこかプロパガンダ映画っぽさを感じるが、それもまた楽しい。」
妖談(**)
「車谷長吉の、各話数ページ程の、本当に短いつまり読み応えの全く無い、まるであらすじでも呼んでいるように感じさせられる短編小説集。いや作品によっては、暇つぶしのエッセイと呼んだ方がふさわしいものもある。題名から、これまでの車谷とは違った趣の作品か?と期待したが、これまで通りのネタであった。いやむしろ、よくぞここまで同じことを繰り返し、書けるよなあ、とさえ思う。」
贋世捨人(☆☆☆☆☆)
「車谷長吉の小説。なんと言うか、車谷という 人は、やっぱり太宰治に似ているような気がする。あるいはM性なのかも。自分のダメな部分、恥ずかしい部分を好んで見せつけたいのかも。で、ののしられたり、蔑まされたりすることに、むしろ快感を感じているのではなかろうか。」
PLAN 75(****〜***)
「日曜に観に行ったからかもしれないが、まさかの満員御礼状態。早川千絵という若い監督・脚本作品。この監督の能力か、撮影監督の能力かわからないが、映像がとても良い。また音声に関する感覚も優れている。難しいテーマを、感傷的な方向に振ることもせず、一貫して静謐な、悪く言えば退屈な、表現方法で描いている。こんな企画が、よくここまで完成させることができたよね。」
パリ13区(****〜***)
「予告編を観た時から、コレは観なければなりませんね、の作品だった。冒頭から気が利いていて映像も強い魅力がある。のっけからトップギアに入れさせられて、もっとゆっくり話が進む作品かと思いきや、グングンとしたスピード映画。まあ、それもいいよね、きっと若い監督なんだろう、と思いながら観ていたところが、話が途中で、まるで第2話みたいに変わって行く頃には、ちょっと、とっ散らかった作品だなあ、ひょっとすると女性監督?近視眼的・直情的な感じからすると、などと感じながら観ていた、性描写も、女側目線だしね。上映前に、いつもはやらないことなんだが、本作のチラシを眺めていた時に、え?原作があるのか、ん?原作が3つ書いてあるなあ、などということが記憶に妙に残っていて、そのことを上映中に思い出したのだが、1本の映画としてのまとまり感がないのは、きっと、そのせいなんだろう、と思いながら観ていた。で、まあ、最終的には収まるところに収まっていくわけだが、なぜ、こんな複数の原作本を組み合わせてしまったのだろうね。でもまあ、きっと若い女性監督なんだろう、と、ジャック・オディアール監督って、70歳!ただし脚本は40歳台の女性だった。悪くない作品なんだけれど、不満が残る作品でもある。そうそう、パリには3週間ほど滞在したと思うけれど、13区って、自分は行ったことがなかったなあ、郊外でもないのに、ああいった高層アパートが立ち並んでいる、しかも中国人が多い街なのかね。」
ダムネーション/天罰(****〜***)
「タル・ベーラ監督作品、なので観た。いつもの館で。思わせぶりな映像と長回しで、それっぽい表現をしようとしているのだ。音楽とかダンスのモブシーンがいいなあ。なんであんなに水びたしなんだろう?タルコフスキーの影響か?ただなあ、煙草吸いすぎタル・ベーラ!」
アウトサイダー(***〜****)
「タル・ベーラ監督作品、なので観た。いつもの館で。ちょっとジョン・カサヴェテスっぽいなあと思っていたら、チラシにも書いてあった。題名の通りの人物の葛藤。音楽とかダンスのモブシーンがいいなあ。ただなあ、煙草吸いすぎタル・ベーラ!」
赤目四十八瀧心中未遂(☆☆☆☆☆)
「車谷長吉の小説。今まで、直木賞というレッテルが貼られていたため避けてきたのが残念なくらいの魅力作だが、これまでに車谷の私小説的短編を読んできた下敷きがあるから、なお良く感じるのは間違いない。つまり本作は、確かにフィクションという舞台で描くという作業の所為か、車谷の肩の力が良い意味で抜けているということもあるのだろうけれど、車谷の意固地さみたいなものさえ表現に繋がっているような気がする。中盤から後半にかけては、さすがにやや創作的な側面が、車谷にしては、強く感じられもするけれど、一気に読ませる。」
一番寒い場所(***)
「車谷長吉の短編で『武蔵丸』という題の短編集の中の1本。これも、どの程度が事実で創作なのか。」
武蔵丸(****)
「車谷長吉の短編で『武蔵丸』という題の短編集の中の1本。これはまるで夏休みの昆虫観察日記のよう。車谷が描くと、それさえもこんな嫌らしい感じに描けるのだ。」
愚か者(***)
「車谷長吉の短編で『武蔵丸』という題の短編集の中の1本。これは『鹽壷の匙』、『漂流物』と連続して同タイトルで書かれている作品。」
功徳(**)
「車谷長吉の短編で『武蔵丸』という題の短編集の中の1本。」
狂(***)
「車谷長吉の短編で『武蔵丸』という題の短編集の中の1本。」
白痴群(**)
「車谷長吉の短編で『武蔵丸』という題の短編集の中の1本。これは、車谷の少年時代に実際にあったことなのか創作なのか?幻想的な雰囲気で描かれている。」
漂流物(☆☆☆☆☆)
「車谷長吉の短編で『漂流物』という題の短編集の中の1本。芥川賞の 講評では円谷才一がトンチンカンなことを言ってる。」
抜髪(☆☆☆☆☆)
「車谷長吉の短編で『漂流物』という題の短編集の中の1本。全て長吉の母の、長吉に向けられたセリフ=その多くは長吉を罵倒する言葉=で構成されている。最初のうちは短いが、だんだんと長口舌になっていき、徹底的に自身をやっつけるのだ、母の言葉を借りて。こんな壮絶な文学表現を初めて読んだよ。」
愚か者(****)
「車谷長吉の短編で『漂流物』という題の短編集の中の1本。同題名の中に、さらに短い短編(詩に近いくらい短いものもある)が集められて一つとなすような作りで、ジッドなんかが似たようなことをやっていたかも。」
めっきり(**)
「車谷長吉の短編で『漂流物』という題の短編集の中の1本。ちょっと太宰治っぽい。」
物騒(*)
「車谷長吉の短編で『漂流物』という題の短編集の中の1本。車谷作品なんだから、それなりの事実に基づいてはいるんだろうけれど、創作的な側面が強い作品か。」
木枯らし(*)
「車谷長吉の短編で『漂流物』という題の短編集の中の1本。車谷作品なんだから、それなりの事実に基づいてはいるんだろうけれど、創作的な側面が強い作品か。」
蟲の息(*)
「車谷長吉の短編で『漂流物』という題の短編集の中の1本。車谷作品なんだから、それなりの事実に基づいてはいるんだろうけれど、創作的な側面が強い作品か。」
鹽壷の匙(***)
「車谷長吉の短編で『鹽壷の匙』という題の短編集の中の1本。陰気で凄絶な話。」
吃りの父が歌った軍歌(☆☆☆☆☆)
「車谷長吉の短編で『鹽壷の匙』という題の短編集の中の1本。陰気で凄絶な話。」
萬蔵の場合(***)
「車谷長吉の短編で『鹽壷の匙』という題の短編集の中の1本。車谷は若い頃、広告代理店に勤めていたようだが、その頃の出来事で、女性に翻弄される話。」
愚か者(***)
「車谷長吉の短編で『鹽壷の匙』という題の短編集の中の1本。幾つかの短編を組み合わせて表題作としてまとめたものらしく、詩に近い感覚。」
白桃(****)
「車谷長吉の短編で『鹽壷の匙』という題の短編集の中の1本。さて本作だが、、、少年時代の思い出だろうか、これはどこまでが事実でどこまでが創作なんだろうね。もし自分が文学部の学生だったら、絶対に車谷を卒業研究の題材に選ぶと思うな。」
なんまんんだあ 絵(*****)
「車谷長吉の短編で『鹽壷の匙』という題の短編集の中の1本。恥ずかしながら、車谷長吉作品を初めて読んだ。図書館で、下調べもせずに、さて次は何にしようか、と書棚を眺めて本書を取ったら、大当たりだった。本人のあとがきなどによれば、車谷の作品は私小説らしい。近頃やっと、自分は私小説が好きなんだと自覚した。それだからこそ壇一男や柳美里や佐野洋子らの作品に強く心惹かれるのだが、ドキュメンタリー映画が好きであることも、同じ感覚からだろう。ただし太宰治は苦手だが。さて本作だが、、、車谷作品は、なんだか泥だらけ垢だらけ汗まみれになって生きている人間の有様が、決して美化されずに描かれている。多くの場合、車谷の少年から青年時代の体験に基づいていることからすれば、言うまでも無く日本がとても貧しかった頃の、いかも田舎の有様なので、余計に、そう感じるのかもしれないが、生活とか生きることが、例えばマンションのようにコンクリートとガラスの中ではなく、またアスファルト舗装された道路でもなく、泥土の地面に近いところで行われており、生きることのいじましさ、のようなものが、方言やジジババの存在も加わって、手塚治虫が描くような明るい未来を全く感じさせない、重苦しいとも違う生々しさで表現されている。自分は短編は好きではないことは、これまでも書いてきたが、この作品は、本当に短いにもかかわらず、長編を読んだと変わらない重たいものを残していく。」
ジャンヌ
「いつもの館でブリュノ・デュモン監督作品なので。ジャンヌ・ダルクの物語の、これは後編と言えるもの。しかしコッチはミュージカル仕立てではなかった。ジョン・レノンが歌っている通り、神とは宗教とは人間が作った概念に過ぎない、と考えている現代の自分、人間に貴賎はなく誰も皆平等、と考えている現代の自分にとっては、理解しがたい状況なのだが、ブリュノ・デュモンは何を表現し訴えたかったのだろうか?」
ジャネット(**)
「いつもの館でブリュノ・デュモン監督作品なので。ジャンヌ・ダルクの物語の、これは前編と言えるもの。なんだろうなあ、レオス・カラックスとともにミュージカル風の表現。こっちは、言わば学芸会風の仕立て、なのか?ともかく後編を観てから。」
なれのはて(**)
「いつもの館で。フィリピンで、あわれな余生を送る、いや、そうせざるを得なかった日本人4人に取材したドキュメンタリー。期待して観たのだが、そこまでではなかったのは、何故だろう。」
TITANE/チタン(***)
「うーん、最初、痛い系ミヒャエル・ハネケかと思ったら、デビッド・クローンネンバーグだった。いやあ、なんで血じゃなくて黒いオイルなんだよー、まさかなあ、などと思いながら観ていたら、そのまさかだったが、つまり、車とヤッた、ってこと?それもリアシートで?フロントなら、まだ分からなくもないけど、、、、。しかし近頃のカンヌはやっぱりおかしい、いや、強い作品ではあったけれど。この第74回ノミネート作品中で自分が観た中でなら、『アネット』がパルムで、『ニトラム/NITRAM』がそれに続く。『ドライブ・マイ・カー』だってずっと良いのにね。待てよ、ブルノ・デュモン作品もあるじゃないか、まあ、新しい何かを見出したい気持ちは分かるけどね、またあいつか、と言われるのも癪にさわるからなあ、なあスパイク・リー。」
ニトラム/NITRAM(*****)
「ジャスティン・カーゼルという監督作品で珍しいオーストラリア映画。NITRAMとは、愚鈍な奴とかノロマという意味らしいが、なるほど、今調べてみたら、MARTINをひっくり返しているのだった。ただしこの題名は、どんなに銃乱射事件が起きようとも、それを決して手放さない人間全体を指してもいるだろう。」
狼(*****)
「新藤兼人監督作品。観ていないかと思っていたが観たことがあった。やっぱり良い。『天国と地獄』なんかよりずっと良い。乙羽信子も菅井きんもノーブラだ。いやこの時代、まだ多くの(ほとんどの貧しい)日本人女性はノーブラだったのだろう。」
廃市(*)
「福永武彦の短編小説で、読んだことがなかった気がしたので読んだが読んだことがあった。水郷の町を舞台にした一夏の出来事を幻想的に描いている。しかしなあ、登場人物達の行動や考え方に、どうしても共感できないよね。あと題名も、最も適切とは言えないよね。」
アルケミスト夢を旅した少年(***)
「パウロ・コエーリョの小説。薄い本だし楽しく読みやすいから、一気に読めてしまう。まるで神話かアラビアンナイトみたいな話だが、なんと本作は1988年に出版された、ごく新しい作品だった。だからだろうか、できるだけ時代性を感じさせないないように描写されており、自動車などは出てこない、ただしモロッコからエジプトに向かう道中では民族紛争・戦争が起こっており、武器は登場する。」
りんごとポラロイド(**)
「まさにポラロイド写真のような、ピントがカリカリではない、良く言えばフワッとした、悪く言えば眠たい映像と4:3?の四角っぽい画角で、雰囲気を盛り上げている。で、諸星大二郎みたいな話。オチが、よく分からなかったけど、記憶を失っていなかった、ってことか?」
空白を満たしなさい(**)
「平野啓一郎の小説。面白い設定だし、平野がこの設定を思いついた時、きっと小躍りしたに違いない、コレは書ける!って。それにしても、なのだが、21世紀にもなった今日に至るまで、現代の文学の、全部とは言わないが、結構多くが不条理劇から逃れられないのは、しかたがないことなんだろうな、やっぱり、ウクライナやパレスチナや世界の貧困や3.11などの災害の状況を見れば。」
アネット(☆☆☆☆☆)
「レオス・カラックスの最新作、なので観た。これはきっと『今までに無い映画を作ろう、文学ではなく映像でなければ伝えられない表現をしよう』と言うようなコンセプトから始めた企画のような感じがする。ミュージカルという形を借りているけれど、ミュージカルを作りたかったわけではないのだ、ただ新しい映画が作りたかっただけ。冒頭から人を、いや観客を喰ったような言葉(息を止めて観ろ)だし、エンディングもしゃれていて、いや全編に渡って観客をドラマに没頭させるのではなく、どこかスクリーンの埒外へ追いやっては、再び引き摺り込むような不思議な鑑賞体験。今おまえはこの映画を観てるよな、おれ(カラックス)はスクリーンからお前を見てるぞ、とでも言うような感覚で、どこか映画を解体するような気分にもさせられる。ラース・フォン・トリアーも『ちっ、あいつめ、やりやがったな』と嫉妬するだろうし、カンヌでパルムを取ってもおかしく無い作品だが、最近のカンヌは、ちょっとおかしな感じもするけれど。」
マチネの終わりに(**)
「確か村上龍が、芥川賞ノミネート作品に対して言っていたことが妙に記憶に残っている。曰く『近頃の作品は、己の傷ついた内面だの苦しみだの何だのと自己憐憫の感傷的な作品ばっかりだ、しかし世界はそんなチンケな内面なんか吹っ飛んでしまうような大きな問題や苦悩がいくらでもあるだろが、なぜそういった大きな文学世界を構築しようと挑まないのだ!』と、まあざっと意訳すると、そんな感じだったと記憶している。で、じゃあ村上(龍)君の作品は世界の大きな問題を描いているのかい?と『半島を出でよ』だったか、を読んだのだが、結局B級映画みたいな話だったことを、本作を読んで思い出してしまった。」
帆花(***)
「いつもの館で。上映後に監督挨拶があり、少し撮影の裏話を聞かせてくれたが、それによれば、この作品は、編集に随分時間がかかっていることが分かったが、その長い時間はそのまま監督の葛藤を表しているのかもしれない。帆花ちゃんが、形だけかもしれないが、小学校入学式を迎えた時、撮影の区切りをつけたのだが、その後、母親の理沙さんから手紙が届いたという。その手紙には『もっと土足で踏み込んで欲しかった』という衝撃的な言葉。重い障害を帆花背負ったちゃんと、それを支える家族を撮影するわけだから、監督とすれば、腫れ物に触るように、どうしても遠慮してしまうのは致し方ないだろうし、それが普通の感覚だ。だが母親は、この撮影をきっかけに、何かをもっと吐き出したかったのかもしれない。映画監督は、やはり河瀬直美のようにエゴイストでなければならないのだろう。」
シチリアを征服したクマ王国の物語(***)
「いつもの館で。どっかで聞いたことのあるような話ではあるが、別にいいではないか、何より色彩が美しいのは、やはりポール・グリモーを生んだお国柄と言うべきか、しかしジブリも本当に何故こういった配色ができないんだろう。また、もう驚かなくなってしまった普通の表現方法としての3DCGなんだろう、輪郭線があまりない(目立たない?)動画。しかしシチリアの話なのにフランス語っていうのもなあ。」
ラ・ラ・ランド
「家族が録画していたものをテレビで観た、のだが、やっぱり映画って、スクリーンで観なければだめだとつくづく感じさせられたが、それ以上につまらない作品。これは元々、映画として企画されたのだろうか、むしろ舞台で、精一杯、セットを組んで、自動車も何台か舞台に置いて、狭い舞台で縦横無尽にダンスするような、舞台のミュージカルにした方が良かったのではないか、そのくらいの単純な話だから。」
ぼけますから、よろしくお願いします。おかえり お母さん(☆☆☆☆☆)
「いつもの館で。実の娘だから撮り得たとしても、下品な言い方にはなるが『この絵イタダキマス』とか『撮れ高最高!』というような下心(と言っていいのかどうか分からないが)と、肉親としての率直な気持ちとが、きっと、ない交ぜになったままに突き進んでいるのだろうけれど、この人(信友直子)だからこそ出来た作品。」
ロカルノの乞食女
「ハインリヒ・フォン・クライストという人の短編小説ドイツ文学。今、多和田葉子さんが新聞小説を連載中で嬉しくて仕方がないのだが、その作中に本作の名前が出てきたので、試しに調べてみたら本当に存在する小説だった。しかも『怪奇小説傑作集』の中に収められており、怪奇小説だったと言うことも後から知ったのだ。残念ながら翻訳は多和田さんでななかったが。で、多和田さんが取り上げていた冒頭の一節も、ちゃんと翻訳されていた。」
エル プラネタ(☆☆☆☆☆)
「主演女優でもあるアマリア・ウルマン監督作品で、プロデュースや衣装デザインまでやっており、今、公式サイトを見た所、母親役は本当の母親とのこと。結論から言えば、セドリック・クラピッシュとジム・ジャームッシュを足して2で割ったような感じ(褒め言葉)の、とてもキュートな作品。モノクロ映画だが、字幕が黄色にしてあるのは題字のイメージに合わせてあるのだろうけれど、こんな洒落たことを、日本の配給会社が思いつき、それを監督に提案したのか?それとも監督側の意向か、いずれにしても気が利いている。題名『El Planeta』は、作中に登場するレストランの店名でもあるが、惑星という意味が言わんとするところは、いちいち説明しなくても分かるだろ。さて、スペインのどこか海辺の地方都市ヒホン(変な地名に聞こえるが、今調べたら、ヒホン=Gijónは、スペイン北部のビスケー湾に面している)で、電気も止められるような土壇場暮らしの母娘の、じたばたが愛おしい。こんなに素敵な作品なのに1週間上映!」
朔風払葉(****)
「柳美里の短編小説で、『秋冬 掌篇歳時記』という単行本の中の一編。あの震災をモチーフにしているということもあるけれど、無駄なものだけをそぎ落として、この表現に本当に必要な言葉だけがフォルムを形作っているから美しく感じるのだと思う。普段は短編は好きではないのだが、この作品は、優れた彫刻を鑑賞するように、繰り返し何度でも読むことができる。そうか、この作品は詩に近いのかもしれない、だから短編なのに力強い。」
土脉潤起
「村田沙耶香の短編小説、『春夏 掌篇歳時記』という単行本の中の一編。敢えてさざ波を立たせようとしているのだと思う。普通(普通って何だ?ってことだと思うのだが)に現代社会で生きることに対するアンチテーゼであろう。もしかしたらこの短編に大いに共感できる人も中にはいるのだろう。ただし自分はダメだった。そもそも女3人が共同生活していて、家の中がゴチャゴチャゴミ屋敷にならず掃除も行き届いて、便器には大便のカスがこびりつきっぱなしなどということもなく、使用済み生理用品がゴミ入れに溢れることもなく、洗面台に茶色い水垢がたまり髪の毛だらけになることもなく、流しには洗っていない食器が溜まりゴキブリが這い回り小蝿がたかることもなく、キッチンには油汚れがこびりつきそこらじゅうベタベタで換気扇が油と埃で真っ黒なんてこともなく、玄関は脱ぎっぱなしの靴だのブーツだのつっかけだので足の踏場もないなんてこともなく、どの部屋も汗と香水が混じり合ったすえた匂いなどせず掃除が行き届いていて、全員が博愛主義に満ちており家事はいつでも出来る者が積極的にこなして助け合い喧嘩なんか起きない、、、、なんてことが、有り得るわけないではないか。姉は既存の価値観を捨てる道を選び、妹と友人ら3人は、それと戦う道を選んだ?」
国境の夜想曲(****)
「ジャンフランコ・ロージ監督作品。ロージ監督は、『ローマ環状線、めぐりゆく人生たち』という作品の、確かに予告編を劇場で観て、これは観たいと思いつつも観ることができなかった作品を撮った人物だった。で、これらの作品は、一応ドキュメンタリーと言うことらしい。つまり役者がシナリオに従って演じているわけではなく、現場の有様を、一応は、そのまま撮影していると言うこと。しかし、いわゆる日本のドキュメンタリーとも、アメリカなどのドキュメンタリーとも異なる考え方に基づいて撮られている。」
非の器(*)
「高橋和巳の小説。恥ずかしながら、平田オリザ氏の書評で初めて知った作家。なのだが、うーん全体の1/8くらいで読書中断。古い本だったので文字(活字)が読みにくいということもあるが、文章がとても硬く、加えて主人公が法律家であることから法律に関する記述も多く、それに輪をかけており、自分の読書能力で継続的に読み続けることができなかった。」
ブラックボックス
「砂川文次の小説。芥川賞などと言っても、まあ所詮、新人賞であり、しかも年に2回も発表されるわけで、出版社の販売促進の意味は大きいから、いずれにしてもそれなりのつもりで読む程度のことでいいわけなのだが、どうしても期待してしまうのは、自分が若い映画監督の作品を好んで観る気持ちに似ているのだろう。さて、本作ではコロナの時代を早くも描写しているけれど、そういうことって、文学表現の普遍性という観点からどうなんだろう?という思いもあるが、しかしまあ、たった今の世相を表現することが悪いことでもないだろうし、とも思うが、自分ならやらないよね、などと書けもしないのに考える。また、なんでこの題名なのだろう?と思うのだ、刑務所のこと?主人公の心の中のこと?ウーバーイーツが背中に背負っている箱のこと?どっちにしても良い題名ではないよね、とも思うのだ。冒頭のシークエンスでは、自転車(ロードバイク)に関する専門的な用語を連発して描写しているが、そういったやり方も、ちょっと鼻に付くよね。PS:チェーンが脱落するのはチェーンリングからであり、フロントディレーラーではないよね。チェーンはフロントディレーラーの羽の中を通っており、そこから脱落することはありえないから。そもそもディレーラーは、変速機と訳しているが、直訳すれば脱線機なのだから。砂川さん、ロードバイクに乗ってないでしょ。」
カナルタ 螺旋状の夢(**)
「いつもの館で、ただし煙草臭い女がいたため苦しかった。エクアドルの密林で暮らすインディオ?の一人に密着取材したドキュメンタリー。『素晴らしい世界旅行』をずっと見ていた自分にとっては、懐かしく感じる作品。トレーラーを観る限りは、映像が写真的で、とても魅力的に感じたのだが、実際は、そうでもなかったのが残念。葉っぱを集めてすり潰して握りしめて汁を集めるなど、まるで子供の遊びのままが暮らしになっている生活文化。」
グレタ ひとりぼっちの挑戦(***〜****)
「いつもの館で。実は、何年か前に彼女がマスメディアに登場した時、そうではないのか?と疑っていたのだが、この作品の冒頭で彼女自身が白状していた、アスペルガー症候群であることを。人類の歴史を形作ってきた科学者・芸術家・教祖・政治家などなどの、勿論全員ではないだろうけれど相当数の人物がそうだったのではないだろうか、ジャンヌ・ダルクもナザレのイエスもシッダールタも。アスペルガーが人類の歴史のターニングポイントにいつも居たのだ。何故なら彼らだけが、そういったワン・イシューの問題に徹底的に拘泥するからこそ決断できるから。カリスマ性とアスペルガー症候群は、深く関係していると思う。だって漫画の主人公を見るがいい、どんな困難にぶち当たっても、たった一人で、絶対に諦めずどんな手段を使ってでも、やり遂げようとする。グレタは言う、誰もがみんなアスペルガーなら、みんな決断できるからよかったのに、と、だがグレタよ、きっと、そうはいかない。何故なら、そうであっても極端に反対側に振れる人間も居るのだ、トランプのように、某国元〜のように。そしてグレタよ、君が挫折する時、君は一体どうなってしまうのか不安でしかたがないよ。せめて君の優しい(どうやらそこそこ裕福であるような)父が、いつも君のそばに寄り添っているように願うばかりだ。」
田舎教師(****)
「田山花袋の小説。恥ずかしながら初めて読んだ。身につまされる話。夢や希望に溢れた若い頃、友人との会話にも『ラブ』とか『アート』などという言葉が飛び出し意気揚々としている。文学に燃え、友人たちと同人誌まで作るのだ。だが、友人たちは恵まれた環境から進学していくのに自分だけが取り残され、やがて、ハイカラな言葉使いは消えていく。
香川1区(***)
「なぜ政治家なんてモノになりたがる人間がいるのだろうと昔から不思議だった。利権とか支配権力欲とか、そういった薄汚い欲望を満たす以外に政治家になる目的などないじゃないか、と思っていたのだ。今回、本作を観て少し、その理由が分かった気がする。もしかすると、この立憲民主候補がとりわけ、そうなのかもしれないが、いや、そうだからこそこの時の選挙で、彼だけが『風』を起こすことができたのであろうけれど、こういった、政治家になれるかなれないかの瀬戸際である選挙では、一種の高揚感に満ちた状態(ハイ)となっていて、その主人公である自分に酔ってもいるようで、精神が高揚する脳内物質がドバドバ出ているのだろう。『ショーほど素敵な商売はない』などと言うセリフがあったけれども、まさに『政治家ほど・選挙ほど素敵な商売はない』のだ。自民党候補は、やっぱり高圧的な態度だが、立憲民主の彼も、いささか自己中心的というか、己の考え方が絶対に正しいと考えすぎる嫌いがあり、例えば以前どこかで『号泣会見』した男と大差無い。ただし繰り返すが、それくらいの男だからこす『風』を起こすことができたのだ。それにしても健気なのは二人の娘である。普通なら、あそこまで協力しないよね、もしかすると彼女らも、いずれ立候補するかもしれない。PS:後から知ったことだけれど、この大島監督って、アノ人の息子らしい、うーん。ただ、確かによく取材してはいるけれど、ドキュメンタリーとしては、いかにも日本的な泥臭い作りで、まあこれはこれで良いのかもしれないが、アメリカのドキュメンタリーみたいに、もう少し凝った映像とか見せ方も工夫してほしいものだ。」
フレンチ・ディスパッチ ザ・リバティ、カンザス・イヴニング・サン別冊(*****)
「見のがしてはいけないウェス・アンダーソン作品。ウェス・アンダーソンの表現が、これでもか、と目まぐるしく繰り出される。情報量が非常に多く、決して見逃すもんか、という意気込みで観ていたとしても、同時に字幕を読まなければならない日本人にとっては、とてもじゃないが全部の映像表現を一度で観尽くすことは無理だろう。2回目・3回目を観た、という人も多く出るのではないだろうか。辞書によるとdispatch=「特派」というような意味だが、新聞の紙名としてそのまま使われるようだ。」
スザンヌ、16歳(*)
「同級生なんか子供っぽいじゃん、と感じてしまうパリっ子16歳の恋の話で、もう繰り返し作られてきた青春モノなのだが、作中に何度か創作ダンスみたいなものを取り入れてなんとかしようと試みてはいるが表現に至っていない、また映像がよくない=きれいでない。これは予算の問題もあるかもしれないが才能の問題だと思う。ヒロインはシャルロット・ゲンズブール似で受け口(ではないかもしれないが、それっぽい)アンニュイな口元で、ちょっと顎が出っ張っており、整った美人という方ではないが、もちろん身近に居れば魅力ある方ではある。自分は良い映画には鼻が効くはずなのだが、コレははずれた。ああ、音楽は良かった。ところで未だにゴロワーズて、で、今でもカフェで煙草が吸えるのか?」
犬は歌わない(***〜**)
「モスクワ?の野良犬に取材したドキュメンタリーで、ライカ犬など人間の宇宙開発の犠牲になった犬達のエピソードや映像と絡めて作る趣向。自分は良い映画には鼻が効くはずなのだが、そこまでではなかった。ああ、音楽は良かった。」
蒲団(****)
「田山花袋の小説で、昔、読んだことがあるような気もするが記憶がはっきりしない。さて、田山花袋の蒲団と言えば、国語のテストに必ず出題されるキーワードであるが、何故か積極的に読もう、とならない作品だった。それは、そのキーワードによってレッテルを貼られてしまったことが大きいと思う。しかし今回、何気なく本書を手に取って読んでみると、かなり面白かった。本作は、私小説的な側面があるようで、その点からも、また文体も、飾り立てた美しい文章ではないところがかえってドキュメンタリズムを生んでおり、現代的でさえある。ちょっと『クレールの膝』を思い出した。」
一兵卒(****)
「田山花袋の小説。これもまたドキュメンタリズム溢れる作品。」
ワーニャおじさん
「言うまでもなくチェーホフの戯曲で高校生の頃に読んだことがあるが『ドライブ・マイ・カー』を観たことで、もう一度読んでみようという気になったので読んだ。しかしなあ、うーん、なんとも不満を感じる読書となってしまった。何故ならこの屋敷の連中は、革命以前の貴族的な階級の、つまり土地を所有する側の人間で、小作農民から搾取する側の人間であるからで、そういった連中が、いくら困っただの人生が無駄になって結婚もできなかっただのと言っても全く共感できないからだ。別に自分は共産主義を信奉する者ではないが、彼らが搾取している小作農民には、もっと切実で苦しい生死に関わる問題があるのではないのか。実際、医者のアーストロフは、転轍手の手術のため麻酔をかけたが、その麻酔のために死なせているが、そのことを多少は気に病んでもいるようだが、まあ、その程度のことで、自分たちとは身分の違う、名前も知らない悪臭の中でうごめく奴らに過ぎないのだ。悪臭から切り離された屋敷で、優雅に=暇を持て余して暮らしているから、くだらない問題でイライラしていさかいを起こす。要するに暇なのだ。
この作品の登場人物は、誰もが自分の思う通りに事が運ばないと不満を抱えている。唯一マリーナだけが、そういった不満を持たず自分の暮らしを受け入れているが、彼女は飽くまでも使用人であり、『この世界の人間』ではないから不満など感じるはずがない、と埒外に置かれているにすぎないのだ。マリーナは使用人だが長く勤めた事で、この屋敷の連中と対等な感じで話をするが、それは飽くまでも使用人としての範疇である。マリーナ自身も、幸運な自分の境遇=使用人になれたこと=に満足し、この境遇を決して手放す事はないだろうし、悪臭の中で暮らしている大衆に比べて優越感を抱いてもいるだろう。
19世紀終わり頃のロシアの文学や演劇の世界では、こういった作品(文学や演劇)をたしなむのは、やはり支配的な階級の連中だったのだろうか。この作品は、そういった連中に向かって書かれているよね。例えば『怒りの葡萄』なら、農場など持たない小作農の物語だよね。」
GUNDA/グンダ(***)
「いつもの館で。象やライオンやキリンではなく、まあどこにでもいる、ただの家畜の、生きている様子を、あらためて見つめ直してみようじゃないか、というような感じで描写している。これはしかしドキュメンタリーと呼ぶには、ちょっと違和感を覚えるのは、人間が一切登場しないからで、やはり映画と呼ぶべきだろう。人間は登場しないと書いたが、そもそも人間に飼われた家畜であり、映像には現場の音がそのまま使われており環境音にロードノイズが入っているし、家畜が逃げないようにするための電気柵があり、子豚を出荷するためのトラクターも登場するから、飽くまでも人間に飼われた=生殺与奪権を人間に握られた=家畜の物語である。哀れな家畜どもは人間に食われるとも知らず、のほほんと生きている。とりわけ母豚のグンダは、子豚におっぱいをやり散歩に連れて行くなど家畜なりに本能的に子供を愛し世話をしているが、一つの生命としては、あまりに酷い運命ではなかろうか。ただ、ほんの少しの救いは、この農場が広々としており、家畜たちは、生かされている間は割に自由にしていることで、過密な環境で抗生物質漬けにされてブロイラーみたいな感じではないことだけは救いだ。モノクロ映像はとても美しいのだが、映画として観た場合、やはり人間が登場しないことが物足りない。しかしなあ、本当に、こんな家畜で映画になるのだね。」
堕落論・日本文化私感 他二十二篇
「坂口安吾のエッセイ集。新聞の書評で平田オリザ氏が書いていたので、恥ずかしながら初めて読んだ。ただ、あまり真面目には読めなかったのは、読みやすい文章であるにも関わらず、なんだか読むにくいことと、同じことを繰り返し書いてくるので、どこかオッサンの戯言にも聞こえてしまうからかもしれない。まあ尤も、これらの文章が書かれた時代背景を、よく認識する必要はある。オッサンの怒りが根底にあるのだろう。」
ジャズ・ロフト(***)
「いつもの館で。ユージン・スミスの借りたニューヨークのロフトにJAZZミュージシャンが集まってセッションみたいになっている様子を、ユージン・スミス自身が撮影したり録音したりした素材を元に構成されたドキュメンタリー。モノクロ写真だからモノクロ映像なのだが、言うまでもなく元の写真が魅力溢れるから映像としても素晴らしいのだが、その写真を1枚完成させるために250枚入りの印画紙の249枚がボツになっていたとは驚き。自分もRAW現像をするまでは、写真というものは、ネガ(またはポジ)に映ったそのままを印画紙に焼き付けられているものだと思っていたし、それが(後から姑息にもいじくりまわさない正直な)本当のやり方だと思っていた。しかしプロは、引き伸ばし機による焼き付け段階で、光を手で遮ったりしながら、明るくしたい部分や暗くしたい部分を意図的に最終的に調整しているのだよ。そういった行為を邪道のように以前なら感じていたかもしれないが、本作でも、その様子が映し出されており興味深かった。だってフォトショにも『覆い焼き』とかあるよね。それにしてもユージン・スミスという人も、どこか発達上の課題があるのかもしれないと感じさせられたのは、その録音の偏執狂的な有様から。だってロフトでの生活のあらゆる音を、当時まだ高級だった録音機材を駆使して徹底的に録音しているのだから。さて、いままでJAZZというものが、どこがいいのか全く分からなかったけれど、この作品を観て、少しわかった気がする。PS:いつもの館は出入り口に喫煙場所を設けてあるのだが、そういった連中がギリギリまで吸っていやがって開演ギリギリに入ってきやがるから、奴らの肺の中から出てくる臭い息=煙が館内に充満して本当に苦しいのだ。その不愉快さがあったので、作品に没頭できなかった、本当に苦しいから。」
ドライブ・マイ・カー(***)
「面白くは観た。劇中劇という設定自体が、一つの物語的な『面白さ』を有効に作り出せる手法ではあって、それを大いに活用している。チェーホフの芝居と嫁の語る物語と現実を絡ませながら、うまく表現していると思う。『偶然と想像』も、文学を映像で表現しようとする面白い試みではあったが、予算が違い過ぎるのだろうか、出来がずいぶん違うし、映像も天と地程の差があるが、カメラマンも違うのだろう。『偶然と想像』は短編オムニバスで、どこか消化不良の側面が否定できなかったが、本作は3時間かけてじっくり描写している点も好ましい。そもそも自分が本作を気にしていたのも、この長さによるところが大きい。村上某は嫌いだけれど、例えば『1Q〜』も文学としては受け入れられなくても映画としてなら十分に有りなのだから。特に北海道の災害跡地でのクライマックスは感動的である。しかしなあ、後からずっとこの作品を思い出してみるにつけ、やはり、どこか好きではない部分がクローズアップされてきた。自分は日頃から(人間を描写せんとする)映画には性描写が必要不可欠なものと考えてきた。だが本作では、むしろ『それは』無くてもいいんじゃないか?とさえ感じてしまうのだ。それを言ったら本作のストーリー上の重要なポイントが抜け落ちてしまうではないか、と言われてしまいそうだが、そもそも性行為の後に何故か妻が『面白い物語を語り出して』それをしかし翌朝には、なぜかスッカリ『忘れて』おり(つまり夢遊病状態で語ったと言うことか?)、一方それを(眠たいのに無理やり)聞かされていた夫が、翌朝、反対に妻に『語り直して』やり、それが面白い脚本となって妻の脚本家としてのキャリアに繋がった、などという設定自体が不愉快なのだ。こういった物語的なギミックが不愉快で、性行為のことや自慰行為のことを繰り返し言葉にすること自体が読者サービスに過ぎないではないかと思えてならないのだよね。だって妻の『喘ぎ声』も、鑑賞者サービス(でっせ)と言わんばかりのやりすぎだったではないか。他人のことは知らないけれど、あんな(いやらしいビデオ)のようなわざとらしい声なんか出さないだろう?。まあ物語の『面白さ』には色々あるだろうし、こういった面白さを歓迎する人もいるのだろうけれど、これはどちらかと言えば、スティーブン・キング的な面白さなのか?。それと嫌なのは、煙草吸いすぎなこと!これも作品上のポイントになってはいるけれど、本当に、もう止めてほしい。サンルーフから、あんな風にやるのを真似する奴が出てくるだろうが!火玉が歩行者の目に入ったらどうする気だ!ただでさえ広島は走行中の車から火の着いたままの煙草をポイ捨てする奴が多いのに!PS:自分は気にならないが、右側の奴らやネトウヨの奴らが本作を観たら、文句を言うのではないか?PSPS:この監督の目線と言うのだろうか、顰蹙(ひんしゅく)を買うようなこと(セリフとか)をわざとやって見せて、周囲(観客)の反応を伺っているような、嫌な感じがあるのは何故だろう。」
名もなき歌(*****)
「メリーナ・レオンという監督の、ペルー・スペイン、アメリカ映画。いつもの館で。これは実話を元にして作られているとのことだが、よくある『実話物』は史実にある程度忠実に作らなければならないという縛りがあって、どうしても、表現というより状況描写に偏りがちだと思うのだが本作は違う。まるで神話を観ているかのようなのだ。つまりこの監督は『実話物』として週刊誌的なセンセーショナルな話題で視聴者の好奇心を満足させることなどハナから目的ではなく、普遍的な人間の生(時には理不尽な出来事や暴力も起きること、それは神様ではなく天然の人間自身が生み出していること)を描写しようとしているから。そして映像も素晴らしい。モノクロということもあるだろう、フレームレートが4:3(いやそれより正方形に近い?)ということもあるだろう、しかも画面の周囲がくっきりしておらずボヤけた感じにしてあって、どこか窓から覗き込むような感覚に陥るということもあるだろうけれど、画面に対する意識やセンスがとても高いと思うのだ。よく、写真は引き算という言い方をするけれど、この映画のどのフレームを切り出しても写真として成立するくらい。悲劇のヒロインは、鼻筋が通って目も大きく二重で、まあ口元はガラモンみたいで太ってはいるが、中学や高校のクラスにいたとして異性に対して異常なまでに妄想を抱いている男子生徒から見れば、それなりに可愛らしい部類に入るタイプではある。しかしペルーの先住民族は日本人とも似通っており、平べったい顔で頬骨から下の骸骨が大きく、出っ歯のオノ・ヨーコ顏で、化粧で誤魔化すことも一切していないから、出産時など苦悶の表情をすると、人間の有りのままの姿形が浮き彫りのように露わになるのだ。それこそ監督の意図するところなんだろう。」
偶然と想像(*)
「濱口竜介監督作品をいつもの館で。濱口竜介という人は、自分が大嫌いな村上某原作の『ドライブ・マイ・カー』も撮っている。先に言うなら、コッチは、坊主憎けりゃ〜の論理で、当然観ていない。いつもの館で全国でも早くに、しかもロングラン上映されたのだから観るチャンスは何度もあったのだが。しかしいつもの館にとっては、思ってもみなかった稼ぎが出来て、ウハウハとよかったことだろう。普段、いつもの館になど見向きもしない人々が大挙して連日やってきたのだから。これでいつもの館主も明るい正月を迎えられて良かったなあ。ついでに言うなら、その時期に、ある場所=ロケ地に、似つかわしくない女性が物思いにふけって座っていた。めんどくさいなあ、と思いながら、自分の写真撮影のじゃまにもなっていた、そのくらい小さなブームだったのだ。そうなってくると、ますます意地でも観るもんか、となって今日に至るわけだが、両作品の予告編は、いつもの館で繰り返し観ていたのだが、村上某原作ということは別にしても、どうしても食指が動かなかったのだ。予告編を観た自分が、これはぜひ足を運びたい、とは思えなかった。とは言うものの、今度はサロンシネマで上映されるようなので、まあ観てみるか、とは思っているのだが。
さて本作。濱口竜介という人は小説が好きなのだろう。そして、小説を読むような感覚で観る映画がつくれないだろうか、と考えているのではないだろうか。その証拠の一つが第2話の作品で、実際に朗読するシーンがある。また証拠の二つ目が棒読みみたいなセリフ回し。ただなあ、最初から感じたのは、なんだか映像が汚いことと、カメラワークが迷ったような動きをすることが気になって仕方がなかった。映像が汚いとは、写っている風景が汚いということ。本当に岩井俊二なら、日本の醜い風景も美しく撮るではないか、あるいはこれが、パリで撮影されたなら、また違って見えたかもしれないが。また、とても暗い映像が多かったことからも観ていてストレスを感じた。夜中に走るタクシーの中は暗くて当たり前で、敢えて、そうやっているのだろうけれど。で、話が進むに従って、表情が見えるように仕組んではいるのだろうけれど、それが表現として伝わらず、ストレスを与えてしまっているのではないか。また、その反対に、教授の研究室では逆光の中で人物に露出を合わせたためか、窓の外が白飛びしており、これも気になった。それと、セリフが棒読みのせいかもしれないが、いかにも固い感じなのは、これもわざとやっていることだろうけれど、表現となっているのだろうか。いや、棒読みと言っても、ちゃんと演出されたセリフ回しではあるのだ、こういったセリフ回しによって、読書的な雰囲気を出そうとしているのだろうけれど、まあ、こんな感じの演劇があってもおかしくはないのだろう、いやむしろ、映画ではなく演劇だったら許せたかもしれない。いや若しくは、こういった台詞回しをもっと徹底したらよかったのかも。しかしなあ、百歩譲っても、人が小説を読むときの脳内は、こんな感じではないと思うのだがなあ。いや別に、棒読みで突っ立っている登場人物が悪いわけではないだろう。演出過剰は自分も嫌いだ。脚本そのものも決して悪くはない。だがなあ、そうか分かった、もっとロングショットを使うべきではなかったのか。例えば第3話は、コレだけで90分くらいの作品にできたのではないだろうか、役者も日本人じゃなくして。短編小説ってのが、あまり好きではないんだよね。
濱口竜介 は、エリック・ロメールが好きなのかもね。第2話の教授には、言動から、発達上の課題があるように感じられたが、そのことも意識してやっているのだろうか、『緑の光線』のヒロインのように。と言っても、エリック・ロメールは、それ(発達上の課題)を分かって、この演出をしたのではないと思うが。そして芥川賞が欲しいのだろうね。」
11分間(**)
「パウロ・コエーリョという人の小説。最初、面白く読んでいたのだが、だんだん飽きてきてしまった。映画っぽい感じ。ただなあ、なぜ西洋人はSM的な方向へ行ってしまうのか?クリスチャンだから?」
こちら放送室よりトム少佐へ(*****)
「PFFアワード2020年入賞作。どっかで聞いたことのあるような、まあ大林風味の話ではある。でも、よく練られ無駄を削ぎ落とした脚本と、真面目な撮影に全く冗長さの無い編集と、主演の男子の素朴さと純な感情が心優しく響いてくる素敵な小品。園子温みたいになれるんじゃないか。」
追憶と槌
「PFFアワード2020年入賞作。」
LUGINSKY
「PFFアワード2020年入賞作。コラージュ映像が面白くはあるけれど、色が汚いのは意図的なのか気付いていないだけなのか。まあ面白くなかったわけではないのだが、彼女が求める刹那的快楽に、ドラッグや銃が入っていない平和な日本。しかし長いなあ。」
ミッドナイト・トラベラー(****)
「タリバンから死刑宣告を受けたアフガン人映画監督とその家族が、アフガニスタンから逃げ難民となって、なんとかEUにまでたどり着く数年を、スマホで録画したものを編集したドキュメンタリー。」
スウィート・シング(****)
「誰もが幸福の青い鳥を追い求めているということ。椎名林檎が歌っている通り、幸福は、案外、そばにあったのだ、と言い切ってしまうには、あまりにこの世界は不公平ではある。たとえ、仕事もせず(仕事が無く)飲んだくれの父であっても、心から愛してくれている分、まだマシなのだ。盗んだクリスマスツリーで子供が喜ぶものか、などと言うなかれ。貧乏人から、発展途上国から搾取している一握りの金持ちが存在する現実を前にして。」
ディナー・イン・アメリカ(☆☆☆☆☆)
「アダム・レーマイヤーという監督・脚本・編集作品。うーん、これは『バッファロー'66』へのオマージュでもあるのだな。だが、いかにデブだったとは言え美人だったクリスティーナ・リッチと違い、本作のヒロインは、お世辞にも美人とは言えない。この人は東洋系の血が入っているのだろうか、いや先住民の血か、ちょっと、いや物凄く良く言えば、渡辺満里奈っぽさも無くはないけど、顎が小さい丸顔のデコッパチで、目だけがギョロリとして、顎から喉にかけて顎部分が無いみたいに見えるように肉が繋がってしかも二重顎、じゃあスタイルバツグンかと言うと、これがまた、どちらかと言えば、だらしなく下半身に脂肪がついてブヨブヨしており、怒肩で顔だけ妙に小さく、また足だけは長いので全体にどうにもバランスが悪い感じ。20歳の役だが、30〜40歳の役でもじゅうぶんにできそうでもある。そんなヒロイン役に抜擢された彼女は、さすがにいじめられ役がぴったり。そういった容姿から、健康そうな白人が彼女をいじめ優越感に浸るのだ。とまれ、シド&ナンシーよろしく二人は強い絆で結ばれていくのは、さすがに出来すぎではあるがヒロインの才能があったから。」
MONOS 猿と呼ばれし者たち(****〜***)
「アレハンドロ・ランデスという監督の作品。MONOSとは、スペイン語で猿のことらしい。『〜に刃物』とか『サルのカキ死に』などとも言うが、人間の愚かな、しかしまた同時に悲しくも神々しく見える美しい本能が、とりわけ戦争という極限状態の中で丸出しになった様子が描かれている。どうやら南米のどこかの国が舞台らしい。美しい高地と野生溢れるアマゾン。言葉もスペイン語かポルトガル語。十代から二十代前半の男女8人くらいの小さな部隊は白人女性を捕虜にしている様子で、そのことが主に命じられた仕事であるらしい。捕虜が『一応』元気な様子を定期的にビデオ撮影する他は、まさかこんな美しい天国で戦争など行われているとは信じられないくらいなのだ。若い隊員達は、だから恋も喧嘩もする、だが彼らのささやかなほんの一瞬の夢や快楽も、マシンガンの重い爆発音が蹂躙し現実に引き戻すのだ。敵はどうやら白人世界で強力な武器を持っており物量で凌駕しているらしいが。世界中の、いつでもどこでも起きる・起きてきた出来事。過去から学ぶことができない私たちはMONOSと呼ばれても致し方ないではないか、某国元首相のように。」
浮雲(***〜****)
「林芙美子の小説。新聞の書評で、平田オリザ氏が紹介していたので読んだ。一体、どの時代に生まれ育ち生きるのが最も幸福と言えるのだろうか。ただ、第二次世界大戦中戦後や戦国時代など戦争の時代に生きることが極めて不幸であることは間違い無いだろうし、誰が好き好んでそういった状況下に生きてていきたいと想うものか、某国前首相と〜会議の人間を除いて。」
稲妻(***〜****)
「林芙美子の小説。林作品には、幸福な人生?を歩む人々は出てこない。誰も皆貧しく、ただ食べて生き延びることに苦労し、娯楽もほとんどない暗く重たい世の中で、人は本能的に性的快楽を求めうごめいている。
泣き虫小僧(***〜****)
「林芙美子の小説。」
牡蠣(***)
「林芙美子の小説。再読。」
風琴と魚の町(*****)
「林芙美子の小説。これは再読。」
防寒帽(*)
「映像文化ライブラリーで、『フランス映画の現在vol.3』から。やはりヌーベル・ヴァーグに薫陶を受けた、というか、助監督などもやって、どちらかと言えば役者として成功した、ジャン=フランソワ・ステヴナンという人が、生涯で3本だけ撮った監督作品の、処女作で、この監督の故郷が舞台となっているとのこと。その場所は、ドイツやスイス国境に近い東の端っこの山岳地域の田舎。そんな田舎でくすぶる独身30男の焦燥みたいのことかな。」
セックス・アンド・ザ・フェスティバル(*)
「映像文化ライブラリーで、『フランス映画の現在vol.3』から。若い女性監督作品で、自らが出演もしており、ヌーベル・ヴァーグに影響を受けているのだろうか、普通の映画にはなりたくない気持ちが先に出ており、インディーズっぽい。女性が描く女性というのは、生々しくて好きではない。男は、どうしても女を、憧れとか、どこか神聖視するところがあるから、男が女を描くと、こうはならないのだ。女にとっては当たり前の、生理とか汚れた下着とか三段腹とか口元のヘルペスとか髭剃り後の青々しい感じとか脇毛の点々とか、そういうものは見たくないのだ。男は女の恥じらいに興奮する、というのは『まんだら屋の良太』のセリフだが、けだし正論である。嫌いな作品ではないけどね。」
思い出の船乗り(*)
「映像文化ライブラリーで、『フランス映画の現在vol.3』から。若い女性監督作品で、自らが出演もしており、ヌーベル・ヴァーグに影響を受けているのだろうか、普通の映画にはなりたくない気持ちが先に出ており、インディーズっぽい、または映画学校の卒業制作っぽい、女の子目線の作品。嫌いな作品ではないけどね。カンペールって、フランスの西の端っこか、ここは行ったことがない。」
シュザンヌの生き方
「エリック・ロメール特集『六つの教訓話』の中から、いつもの館で。どうやらこのシリーズには、意地の悪い登場人物が出てくるようだ。観客は、意地の悪い行為を見せつけられることで、心揺さぶられるし、そういう奴・女もいるよなあ、となるのだろう。人間模様のスケッチと言うわけだ。まあ、女は強いって感じだろうか。」
モンソーのパン屋の女の子
「エリック・ロメール特集『六つの教訓話』の中から、いつもの館で。どうやらこのシリーズには、意地の悪い登場人物が出てくるようだ。観客は、意地の悪い行為を見せつけられることで、心揺さぶられるし、そういう奴・女もいるよなあ、となるのだろう。人間模様のスケッチと言うわけだ。しかし、よく煙草を吸うよね、それとゴミを平気で道路にポイ捨てする場面を、あえて描写している。あと、モンソーのパン屋の女の子は、お金を触った手でクッキーを手づかみするが、いいのか?。ま、食堂では、硬いパンをテーブルに直に置かれるけどね。」
ベレニス
「エリック・ロメール特集『初期長編作品』から、いつもの館で。」
百年の孤独
「恥ずかしながら初めて読んだ、いや、2/5まで読んで中断。面白くなかったわけではない。いや、こんな話だとは思っておらず、もっと難解な言葉が続くものだとばかり思っていたくらいだから。しかも20世紀の作品であるから文体も現代的で読みやすい(もっと古い、例えば『ドン・キ・ホーテ』みたいなものかと思っていたから)。それなら何故、読むことを中断したのか?一つは、本書が古い本であったことからかもしれないが、文字が小さく、しかも2段組であることから、戦意喪失させられたこと。もう一つは、登場人物が多く、似たような名前も多いのだが、登場人物と人間関係図を、読み進めながら作るべきだったと、後から後悔したこと。もっと新しい版で、2〜3冊になってもよいから、もう少し大きな文字と現代的な(もちろん明朝)活字で印刷されて、登場人物表のついた本はないものか。PS:翻訳は悪くはなかった。」
獅子座(***)
「エリック・ロメール特集『初期長編作品』から、いつもの館で。面白かったけれど、本当にこの終わり方でいいのか?」
モンフォーコンの農婦(***)
「エリック・ロメール特集『初期の短編集』から、いつもの館で。主演の女性は、役者ではなく本当にここで働いている人ではないだろうか。だからドキュメンタリータッチが心地よい。しかし終わり方が突然すぎるのは、エリック・ロメールがやる気を失ってしまったからではないか?『ああ、こんなドキュメンタリーなんかツマンネエ!』って感じで。」
愛の昼下がり
「エリック・ロメール特集『六つの教訓話』の中から、いつもの館で。生真面目な男を誘惑する悪女という構図で、役者の雰囲気もよく合っているが、しかしこれを、どう観ればいいのだろうか、と言うのも、『モード家〜』を観せられた後なのだから、やはりカトリックというキーワード抜きには語れないのだろうから、誘惑する方の女は、さしずめ悪魔ということだろう。まさに、そんな風に演出されていた。ならば、悪魔の誘惑を、よくぞ退けましたね、という教訓を読み取れ、と言うことなのか?そんな道徳貞操観念を。『クレールの膝』のローラ役が出ていた。」
ヴェロニクと怠惰な生徒
「エリック・ロメール特集『初期の短編集』から、いつもの館で。」
クレールの膝(***)
「エリック・ロメール特集『六つの教訓話』の中から、いつもの館で。昔、観たことがある。エリック・ロメールは、モノクロよりカラーの方がいいと思う、それは何故だろう。チャップリンなんかは、モノクロの方が圧倒的にいいよね。
30歳半ばだったかな、で婚約したオッサンは金持ちらしく、バカンスついでかどうか知らないが、湖畔の別荘を売るためにやってきたらしい。このオッサンは、ノッペリした長髪と髭面で、まるでホームレスか某新興宗教の教祖みたいなツラだが、ここでの移動は小さいながらも所有しているモーターボートで、服装もバブルの頃の石田純一みたいで、金持ちらしい優雅さも併せ持つようだ。で、このオッサンが、隣人の娘10代の姉妹(父親が異なるらしい)にスケベな眼差しを送り、婚約中にも関わらず、できれば手篭めにしたいという気持ちがムクムクと湧き起こり、たまたま居合わせた作家の女(これも美人ではある)に焚きつけられて、小説のネタになるから、という言い訳を得て、行動に移すという寸法。ただ(結果的に)本命となる姉のクレールは、バカンスで他所に行っていておらず、最初は妹のローラに手を出す。ローラは14〜5歳だろうか。やせっぽちでひょろ長い体型に少しだけ目立ってきた胸が、まるで小ぶりなマフィンのように目立って、第二次性徴は始まってはいたが、一見してまだ子供っぽい。一方、遅れて登場した17〜8歳くらい?のクレールは、すでに彼氏もおり、それなりに体験済みの様子。クレールも、決して豊満ではなくスレンダーなのだが、皮下脂肪が女性的なラインを形作っており、オッサンの好みにドンピシャなのだろう。オッサンのネチネチいやらしい視線が魅力だが、これは言うまでもなく、エリック・ロメールの視線でもある。」
ある現代の女子学生
「エリック・ロメール特集『初期の短編集』から、いつもの館で。これが、どういう意図で作られたのか。」
モード家の一夜
「エリック・ロメール特集『六つの教訓話』の中から、いつもの館で。表現とは説明との戦いであることが、とりわけ、映画では、しばしば強調されて感じさせられるわけだが、結局、エリック・ロメールが表現したいことが表現できておらず、表現力が足りないから、こんな、ダラダラとした、結局、セリフ(で、説明)だらけの、作品になるのではないのか。まあ、字幕を読んで観ているという時点で、そもそも、おとといおいで、と言うことかも知れないが、その割には、中途半端に主役の職業について説明しているが分かりにくいし(リュミエール兄弟の、『工場の出口』みたい)、一方で、誘惑してくる女が医者だったなんて、後から解説を読んでやっと分かった。まてよ、主人公は二日もフロに入っていないなんて不潔なフランス人。」
紹介、またはシャルロットとステーキ
「エリック・ロメール特集『初期の短編集』から、いつもの館で。エリック・ロメールのほんの初期の短編(にもかかわらずダラダラ長い感じがする)で、習作と言ってもいい程度のものだが、ゴダールが主演。ただ、この頃から、一人の男が二人の女の間で揺れ動く様に、関心があったんだろうね。しかし、いきなり肉を焼いて食う女、で、その後すぐにキスするフランス人。清潔感がなくていい。ヤカン使えよフランス人。」
ハイゼ家 百年(*)
「いつもの館で。218分もあるので、館主の計らいで、途中に休憩が入る。」
貝に続く場所にて
「石沢麻依の小説。なんだか硬い文章であること、分かりにくい比喩表現が多いこと、街の様子を正確にイメージしなければならないこと、この文章表現は本当に正しいのか?と感じさせられること、なんだか無理から難しい言い回しを使っているのではないかと感じること、などから読むのが疲れて読む気が失せてしまい、1/3くらいで中断してしまったのは、自分の読書力が足りないせいだろう。ただ、早くもコロナ禍と、関東東北大震災と津波と原発事故を組み合わせて描写するという設定からか、それとも作者の性格からか、それとも表現上のアレからか、文体として、静謐な感じ、を出そうとして、それで硬く感じさせているのだろうけれど、もちろん、あの時、筆舌に尽くしがたい出来事が起こり、その記憶がいつまでも重たく日本人なかでも東北の人々にのしかかっているのは当然のことなんだろうけれど、それにしてもいささか感傷的に過ぎる嫌いはあるよなあ、と感じてしまったのは自分のせいだろうか。例えばミナマタのように、加害者がはっきりしていて攻撃する標的が明確なケースと違い、(原発は別として)自然災害の場合は、怒りのやり場がなく、ただ受忍するしかないということが、より一層、つらいのだろうけれど。」
おまじない(*)
「西加奈子の短編小説集。再読。短編過ぎて。作家にとって短編というのは、どういった位置づけなのだろう。」
サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)(*)
「ウッドストック・フェスティバルが開催された同じ1969年に、ニューヨークで黒人ミュージシャンが集まって、大規模な黒人音楽フェスティバルが開催され、しかも撮影されていたのに、今日まで発表されなかった映像とのこと。」
彼岸花が咲く島(****)
「李琴峰の小説。地球のどこに住んでいようとも、グローバリズムと無関係ではいられない21世紀である。哀れな人類は、自らの知恵が生み出した文明によって、かえって生きにくい世界を作り上げてしまったのだ、愚かにも。生物としての幸福が、どこにあるのかも分からないで、霊長類などと名乗っているのだ。僻地の島を平気な顔して蹂躙しながら、殊更に自分の生まれ育った(たまたま、その場所に発生したに過ぎないのに)場所を、他所よりも『美しい』などと強調すること自体が恥ずべきことであることにさえ気づかないのだ、あの連中は。
尤も本作に不満が無いわけではない。女性が政治を行えば争い(戦争)をしない、という神話は、安易に過ぎる。だから作品全体が、少し漫画っぽさを帯びてしまうのだ。だって女性政治家や女性ジャーナリスにも、威丈高な国粋主義者がいるよね、あの人とかあの人とか....。」
いこぼれのむし
「小山田浩子の小説。もう、速読みたいな感じで読んで、ではなく、眺めてしまった。そうなのだ、こういった『不愉快な感じ』もポイントで、大江の作品でも、大江がイーヨーのことでプールで不愉快な(と感じた)人物とのいきさつを書いているが、大江の場合、かぎりなく自分自身になぞらえて描くことによって真実味が増し説得力が生まれ、共感と言うか、身につまされるように心に刺さってくるのではないか。」
ディスカス忌
「小山田浩子の短編小説。以下同文なわけだが、不妊に悩む女性と夫のことを、もっと素直に描写すればいいのに、と思うが、それを言ったらおしまいなのであって、小山田は小山田なりの表現を模索しているのだろう。」
工場
「小山田浩子の小説で、表題作がタイトルの単行本。1ページ目を読み始めてすぐ、ああ、これは苦手なタイプの、つまり不条理とかシュールとか超現実とか、つまりカフカとかカミュとか安部公房とか、きっと大江健三郎も川上弘美も(実は大嫌いな村上春樹も)その系列に属すると思っていいのだろうけれど、大江の場合は息子イーヨーの存在が、概念に肉付けしたことによって存在感や説得力が生まれたのだろうから読み応えがあると思うのだが、この作品は、なんだか先に手が動いて書けてしまったような空虚さ。もう、この文章そのものが(飽くまでも、自分にとっては)全く読む必要のない言葉の羅列にすぎないと感じつつ、少しスッ飛ばしながら最後まで読んでしまった。3人の主要な登場人物を、読者に最初からはっきりと区別させないことや、(同姓の登場人物で、アレおかしいな、女だったよな、アレ、男だったっけ、と前のページを見直させたり)大きく異なる時間さえ混ぜこぜにする手法も不愉快。まあ結局、表現とは説明との戦いなのだから、別にコレはコレでいいのだし、嫌なら嫌で読まなきゃいいだけなのだけれど、しかしそれならそれで、やるならやるで、何かもっと新しいなら新しい表現を作り出すなら作り出す覚悟で、やるならやってほしいな、今更シュールレアリスムなんて、20世紀の遺物じゃないか。もう大昔の諸星大二郎作品に似たようなのがあった気がする。今、芥川賞受賞作『穴』に対する感想文を見直してみたら、同じようなことを書いていた。」
推し、燃ゆ(*)
「宇佐見りんの小説。何故か読む前から、主人公は30歳代前半の行き遅れかかって焦っている女性が、その代償としてアイドルタレントに熱中している話だと勝手に思い込んでいた。だから主人公が女子高生だと分かった時ちょっと残念な気持ちがしたが、奥付の上の方に書いてある簡単な作者プロフィールを見ると、なんと1999年生まれということだから非常に若く、金原ひとみ等ほどではないにしても、若くして芥川賞を受賞したということだから、と言っていいのかどうか分からないが、この作者にとっては、30歳代の行き遅れより女子高生の方が自分にとってリアリティがあり描きやすいのだろう。ただ、その年齢に比して文体は結構しっかりしているように感じた。ただし『都度』という言葉を、『その都度、〜する都度』と書かずに、いきなり『都度』と省略するところなどは、やはり現代の人を感じさせられた。それはともかく本作は、アイドルタレントがSNSを通じて炎上するという極めて現代的な現象と、勉強のできない女子高生が、そこから逃避するためにアイドルタレントに熱中する行為とが描かれているが、どうも、それぞれ別々に感じてしまった、またこの女子高生に、ちっとも共感できなかった。まあ、それを言ったら、柳美里の受賞作も、柱を何本も建てていながら回収していない、と評され、実際そうなので、芥川賞は新人賞であるということからしても、そういった不完全な部分はあっても構わないのだろうし、今後も注目したい作家であることは間違いないと思う。」
MINAMATA ―ミナマター
「この手の歴史物は、どうしても、史実に基づいて作らなければならない事が表現上の足枷になる。いっそドキュメンタリーでやって、今は亡き石牟礼さんも登場させてほしかったが、それじゃあ興行収入が望めないし、ジョニー・デップが出演することで、この事実を知らない人に伝えるという役割は大いにあるだろう。ラストのクライマックスの撮影風景は素晴らしかった。しかしエンドロールで、世界中の薬害や公害病などをいくつも紹介していたが、ベトナム戦争での枯れ葉剤による影響は、出なかったな。」
青春の遺書(**)
「真継伸彦が、NHKが企画した、番組(本書と同名の)に出演し、喋ったことを本にまとめたものらしい。真継氏が語りすぎるため、読む気がが失せてしまうが。」
17歳の瞳に映る世界(***)
「いつもの館で。もしかすると、そうなのかな?と感じつつ観ていたが、やはり女性監督だった。望まぬ妊娠をしてしまった女子高生が、親に内緒で中絶するため、慣れないニューヨークに行きお金もなくなって困って右往左往するという、まあ聞いたことあるような話ではあるが、BGMもセリフも控えめにして、不安な主人公の心理と、男の知らない中絶の苦しみを始めとした問題を、描き出している。」
愛について語るときにイケダの語ること(☆☆☆☆☆)
「いつもの館で。ここには壮絶な人間の真実が描かれている、いや、描かれてしまったのだ、イケダ氏によって。イケダ氏は、いわゆ『小人』の人である。作品を見る限りでは、小学生低学年くらいの身長しかない。それにも関わらず、顔や上半身や性器は大人と同じであるから、いかにも滑稽に見える。一人暮らしの自宅アパートのドアの鍵を開けるために、腕を精一杯伸ばさなければ届かないほどだ。そんな40歳のイケダ氏が、自らを取材させたドキュメンタリー、つまり監督はイケダ氏自身。イケダ氏は役所務めである(あった?)らしく、その安定した(おそらく平均以上の)収入を、それなりに自分の好きなように消費しているように、少なくとも本作を見る限りは見受けられる。障害に合わせて改造した自動車(軽?)を所有しているし、自分の体に合わせて仕立てた服(コートとか)ももっている。そんなイケダ氏だから(金に糸目をつけず?)プロの女性との性的交渉も頻繁にある。そんな、イケダ氏のありのままの姿を、彼が末期のガンであることが発覚した以降、どうやら友人であるらしい人物(本作のプロデューサー兼撮影をしている)真野氏の協力を得て、具体的に映画化が始まったのだ。イケダ氏は、性器のことや性行為のことを、あからさまに話す。それはまるでゲスいエロ親父の姿そのものではある。身体の障害がある上に末期のガンという二重の重たいハンデを背負った彼は、しかし少なくともカメラの前では、平然としてゲスいのだ。プロの女性に子供のように抱きかかえられるイケダ氏の裸体は醜いが、自らの性器や滑稽な性行為を全て平然と映すのだ。我々観客は、40歳の今のゲスいイケダ氏しか観ることができない。しかし想像してみるがいい、彼が幼児・小・中・高・大と成長し、我彼の差を否応無く意識させられ思春期を迎えた時の彼の苦しみを。その時、いかに運命を呪い神を呪ったかを。だがカメラの前のイケダ氏は、平然としている。平然と、プロの女性との行為に励む。イケダ氏は、撮影も終わり=自分が間も無く死ぬだろう時=に近づいた時、監督として宣言するのだ。この、自らのゲスい部分が活写された本作は、自身の死後、真野氏に委ねられるが、個人の生前の名誉を慮って改変することをさせず、ゲスいまま公開することを。
さて、イケダ氏は、なぜここまで執拗に自らの、特に性的行為を撮影したのか?もちろん、それは自分の生きた証を残そうとする行為ではあるが、それならゲスい姿ではなくとも良かったのではないか?イケダ氏は、性行為において『中出し』の『良さ』を力説する。イケダ氏は、異性に対する『好き』という感情は分かるが『愛してる』は分からないとも言う。イケダ氏は死の間際に立たされて、障害のある体であっても、自らの種=DNAを残そうとする本能に突き動かされたのではないのか?ただ、仕組まれたとはいえ、せっかくデートした可愛いいサトミちゃんの告白を受け入れなかったのは、イケダ氏の誠実な理性だった。」
Summer of 85(****)
「今度こそはと裏切られても裏切られても観続けて、いや、もう、そろそろ諦めようかと本気で考え始めていた今日この頃に、やっと、やっと、やっと、やっと帰ってきたフランソワ・オゾン監督作品。ああ、男の子なのに男が好きだと分かってしまった青春の夏を、どうすればいいと言うのだ。自分の体の中の遺伝子が、本当にほんの少しだけ違った動きをしたからと言って、その若者になんの罪があると言うのだろう。ヨットで沈したことがきっかけで出会った彼によって気づかされたのだ、自分の本当を。なんだかわからない焦燥を紛らわせるため、見えない壁を飛び越え向こう側に行こうとして、向こう見ずにバイクで疾走したとしても、一体誰がその行為を咎められるだろう。海とバイクと同性愛の青春、これこそフランソワ・オゾンだろ。ところで、なんで85年である必要があるのだろう?この年、フランソワ・オゾンも18歳くらいのようで、もしかして自伝的要素もあるのか?などと勘ぐってみたが、公式サイトによれば原作があるらしい。ただ、自分の青春を、オーバーラップさせていることは間違いないのでは?」
スーパーミキンコリニスタ(**)
「いつもの館で。題名と予告編から期待したのだが、そこまでギューっと心が締め付けられ感じさせられることはなかった。題名...と言うのも、この『スーパー〜』が、鈴木翁二作品に似たようなのがあったことから、余計に期待してしまったのが良くなかったかもしれない。届かない夢に向かってジタバタする様子、は、そもそも切ないのだが、うーん、」
孤独な声(*)
「アレクサンドル・ソクーロフ監督作品。DVDで。アレクサンドル・ソクーロフの、映画大学の卒業制作とのこと。難解、と言うよりも、表現ができていないと言うべきだろう。映像は魅力的だけど。PS:原作があるらしい。これを読んでいなければ理解不能だ。」
フランドル(**)
「ブリュノ・デュモン監督作品。DVDで。フランス北部も一応フランドル地方と呼ぶことができるようだから、そこらへんの田舎ということか?だったら、ベルギーでなら、その週での堕胎ができる、というセリフにも合致する。で、砂漠の戦場だが、アフガニスタンの紛争にフランスは参加していたのだろうか?しかし現地の男はあご髭を生やしていなかったとすれば、セルビアとかあちらへんか?などと、どうしても本筋とは関係ないところでひっかかってしまったのだが、それはしかたがないだろう。例によって動物的に描かれた人間(=汚れた格好で汚れた屋外で行われるあっと言う間の性行為などから)と、そんな人間が行っている戦争の虚しさ、と言うことなのだろうけれど、自分が期待するものではなかった。戦場のことなど全く知らないが、大体、今頃の戦争で、物量的に優位な先進国側が、あのような小さな部隊(と呼んでいいのかどうかも知らないが)だけで単独的に行動するものだろうか?しかも、どんな使命を帯びているのかも説明されず、ただフラフラと敵地に入ってしまっているのは迂闊と言うほかあるまい。もっと組織的に、空爆を中心とした戦争方法を用いるのではないのだろうか?ボタン一つで非戦闘員が殺される現実があるのではないのだろうか?短い作品なのに長く感じてしまったよ。」
あしがらさん(***)
「新聞の記事で知った。」
淀川アジール さどヤンの生活と意見(**)
「いつもの館で。淀川河川敷で暮らしているホームレスの老人に取材したドキュメンタリー。前向きなホームレス、と言うのだろうか、こういった暮らしを楽しんでいるように、本作を観る限りは、見えた。尤も、そう感じるのは、本作が、こういったアウトサイダーな生き方を、どちらかと言えば肯定的に描いているからでもあろう。ただ、観ていて、どうも主人公のホームレスに共感できなかったのは、この人が、ちっとも惨めに見えないからかもしれなくて、そのことを自分がやっかんでいるからかもしれない。税金も払わないで不法に居座りやがって、という感情である。しかしながら人間社会というものは、いつでも完璧にはなれないのだ。」
無明(****)
「真継伸彦の小説。『鮫』の続編として書かれたもの。前半が、やや説明的ではあるが、やはり面白い。」
死者への手紙(☆☆☆☆☆)
「真継伸彦という初めて聞く人の短編小説で、『新鋭作家叢書ー真継伸彦集』の中の一編。宮沢賢治の詩に、病床に付く妹へ送った、美しくも壮絶な作品があったが、それに負けず劣らない。」
石こそ語れ(☆☆☆☆☆)
「真継伸彦という初めて聞く人の短編小説で、『新鋭作家叢書ー真継伸彦集』の中の一編。」
鮫(☆☆☆☆☆)
「真継伸彦という初めて聞く人の小説で、『新鋭作家叢書ー真継伸彦集』の中の一編。『まつぎのぶひこ』と読むらしい。確か新藤兼人に、戦国時代の悲惨さを激しく描写した素晴らしい作品があるが、それに負けず劣らない。
そもそも自分の読みたい小説を探すことが本当に難しくて、なかなか『素晴らしい出会い』に恵まれないわけだが、図書館でボーッと書架を眺めながら、引き寄せられるように手に取ったのが本書。無人島に一冊だけ本を持っていくことが許されるなら〜という広告を新聞で、よく目にするが、そんなことを初めて感じさせられた本でもある。」
ライトハウス(**)
「予告編を観たところ、うーん、ちょっと興味はあるのだが、そこまで期待するほどでもないか、良い意味で期待を裏切ってくれればいいのだが、というふうに感じさせられたのだが、実際に観たところ、あまりに予想通りの、期待通りに期待を裏切ってくれたので、かえってアッケラカンというか青々とした気分になった。モノクロで4対3?もっと正方形に近い?画面だったり、影を印象的に使ったり、鳥だったり、塔だったり、オッサンの顔面のアップだったりと、ヒッチコックなんかの時代の表現的雰囲気を醸し出しているわけだが、これでもか!とやってるわりには人間が描写されていない。まてよ、近頃、鳥やライオンなど、立て続けにCGを見せられてきたが、このカモメもそうだろ!だったらちょっとガッカリで清々しくないぞ。ここまで徹底的にヒッチコックの時代のやり方に倣って欲しかった。」
1秒先の彼女(***)
「いつもの館で。台湾映画って、あまり観たことがないが面白かった、ちょっとアメリを思い出したけれど。邦題はおしゃれだが、特に意味はない。」
同姓同名小説
「松尾スズキの小説。途中で読むのをやめた。」
地球星人(**)
「村田沙耶香の小説。確かに一気に読んでしまうほどに面白くは、あったよ。ただ、読みながら、これは、まるで漫画のような面白さだと感じていた、例えば山本英夫のような。だから普遍的な人間の有様や苦悩が表現されていると言うよりは、刺激的な表現で読者を釘付けにして、単行本の売り上げを伸ばすことが目的だと、思わざるを得ないなあ。」
ウィステリアと三人の女たち
「川上未映子の短編集。どういうつもりで川上は、これらの作品を書いたのだろう、男っぽさが川上の身上だと思うのだが、こんな、どちらかと言えば女性をターゲットにしたような短編を。」
グリード ファストファッション帝国の真実(***)
「マイケル・ウインターボトム監督作品、なので観たら、やっぱり面白かった。ドキュメンタリー調の作りも、ウインターボトムならでは、と言っていいのか、対象に距離を置いた作りが心地よいのだ。思い起こせば、この作風は以前からのもので、必要以上に感情移入させず客観的に、人間を群として捉え全体的に表現して見せるのだ。主人公の伝記を書く仕事を受けている男や、ディスプレーデザインをしている男など、内向的でコミュニケーションがうまくできず不器用なのも良い。ギリシャ神話を下敷きにして、誕生日パーティーをギリシャ風にデザインする趣向も良い。こんなに面白いのに1週間限定上映。」
あ・うん
「恥ずかしながら向田邦子作品を初めて読んだが、これは戯曲とは呼べないだろうテレビドラマの台本。何故なら、テレビのカット割に合わせて細かく場面が指示してあり、そのうちのいくつかは、台本には必要でも、読み物には必要なものとは感じられなかったから。戯曲なら、小説とはまた少し違った側面から人間の描写を試みる。戯曲の流れで」
ベル・エポックでもう一度(**)
「面白いアイデアである。あれだけのセットを組んであれだけの役者を動員して小道具まで徹底しているわけだから、1日100万円でも高くはないだろう。それにしても、マリアンヌ役は確かに『8人の女たち』にも出ていたのを覚えているくらいの美人で素晴らしい役者だと思うが、70歳を超えてるのだが...........。」
竜とそばかすの姫(***〜****)
「ごく単純な話である。言ってみれば、冴えない女子高生のラブロマンスが下敷きで、仮想現実空間の中でだけ輝くことができた自分(冴えない女子高生)が、一つ脱皮=成長することができた話。分かりやすく楽しく作られているが、例えば色彩などは、ジブリとは異なって、絵の具の生々しさがなくて気持ちが良かった。まあ、50億とか言っておきながら、探している相手が『日本人かい!』とあっけないのは仕方がないことではあるけれど。」
知床に生きる
「立松和平の、小説ではなく新書。」
アメイジング・グレイス アレサ・フランクリン(***)
「『マンディンゴ』を観た後にコレを観たのは偶然だが、黒人の多くが、ゴスペルによって慰められ(あるいはガス抜きされ)てきたのだろうことが、しみじみと感じられた。」
マンディンゴ(***)
「いつもの館で。19世紀半ばのアメリカ南部での、黒人(と男尊女卑)問題を描いている。1975年作。」
ビバリウム(*)
「最近では珍しいことではないけれど、最初から、映像はちょっとイイな、と言うか、なんだかレンズの加減かどうか、どこか変わってるな、と感じていた。(決して、色のことを言っているのではない)顔のクローズアップも、通常よりさらに寄っているような感じで、主演女優の顔面の毛穴まで見せつけている。だけどなあ、まあ、宇宙人的な連中の仕業だとしよう、だとしても、あまりに回りくどい方法ではなかろか、カッコーと比べても。だってカッコーは、巣も餌集めも、やらせるのだろう?もしカッコーが、わざわざ自分で巣を用意して、餌を毎日集めてくるなら、いっそのこと、自分で育てたほうが早いじゃないか。結局、こういった状況が描きたかっただけなのだから、托卵などという屁理屈を付け加えずに、もっと素直にバカに成り切った方が素直に楽しめたと思うのだ。あ、右ハンドル、あ、日本車。」
DAU.ナターシャ(***)
「イリヤ・フルジャノフスキー、エカテリーナ・エルテリ.....という....連名?の監督作品で、予告編で『ラース・フォン・トリアーを超えた!』などと言うから観なけりゃならんので観た、が、超えてはいなかった。前半は、特に初期の『ドグマの誓い』などと銘打って、手持ちカメラでBGMも使わないでやっていたラース・フォン・トリアー風ではあった。性行為描写も、愚かにもボカしてはあったが、もしかすると演技ではなく本当にヤッていたかもしれないし、二人の感情描写には鬼気迫るものがあった。後半は、ミヒャエル・ハネケ風味で、これはこれで共産主義の恐怖の現実?を痛々しく描写していた。
そもそもDAUってどういう意味だ?公式サイトからコピー=『タイトルの「DAU」とは1962年にノーベル物理学賞を受賞したロシアの物理学者のレフ・ランダウからとられている。彼はアインシュタインやシュレーディンガーと並び称されるほどの優秀な学者であると同時に、スターリンが最高指導者を務めた全体主義時代において、自由恋愛を信奉し、スターリニズムを批判した罪で逮捕された経歴も持つ。』....だとか。
主演のナターシャ役も助演のオーリャ役も素晴らしかったが、残念ながらナターシャ役にセックスアピールがないのだ。それなのに、あのフランス人は、なぜそこまでナターシャに入れ込んだのだろう、オーリャではなく。しかもフランス人ならもっとテクニシャンではないのか?あれじゃあ単調だろう!」
ビーチ・バム まじめに不真面目
「ハーモニー・コリン監督作品なので観た、のだが、これは実在の人物=詩人をモチーフにしたわけではないのか、うーん、一部の登場人物のセリフが、詩っぽいとも思ったが、主役の語る詩が、ちっとも良くないよね。」
ワン・モア・ライフ!
「うーん、イタリア映画らしいなあ、雑な作りが。そもそも漫画なんかでよくある設定だが、それを92分ときざんできたのがポイントであり面白さ、それなのに。確か、ブリュノ・デュモンの『ユマニテ』が、日本でも勿論、愚かにもボカされているわけだが、ボカされても、そのシーンが残っているだけ、まだマシで、イタリアでは、そういったシーンが、まるごとカットされたという。あんなに自由に生きているように見えるイタリア人だが、カトリックの総本山を有する国だからだろうか、映画の性描写には厳しいようだ。だからしかたがないこととは言えなあ。」
コスモスの影にはいつも誰かが隠れている
「藤原新也の、普通エッセイと言えば、そんなに気負わずに、書く方も書くし読む方も読むものだと思うが、この人は全力で書くエッセイ。」
東京漂流
「藤原新也の、普通エッセイと言えば、そんなに気負わずに、書く方も書くし読む方も読むものだと思うが、この人は全力で書くエッセイ。」
わたしの叔父さん(***)
「フラレ・ピーターゼンという監督のデンマーク映画。予告編を観ると、アキ・カウリスマキっぽい感じがしたので観た。確かにそうではあって、登場人物は口数が極端に少ないのだが、なんだかカウリスマキと言うよりも、是枝裕和っぽい?いや、カウリスマキが尊敬した?オズっぽい?のか?この作品にユーモアは、あまりない。(デートに叔父さんが混じっている場面は楽しいが)主人公の若い女性の希望のない境遇が、ひたすら描かれていく。こんな終わり方の作品があっても構わないだろうけれど、こういった終わらせ方をするからには、それなりのメッセージとか言いたいことが表現されてもいいのに、とも思うよ、例えば『ケス』のように、だが、そういった何かは感じられなかったなあ。こんな人生もある、と承服しがたい現実を見せられた、と言うことなのか?牛の出産やそれに関する症状などが描写(と言っても会話の中でだが)され、下半身が思うように動かない叔父さんのノソノソする様子や、主人公女性に想いを寄せるイケメン男子の前でケツをまくって見せる行為など、人間と家畜を並行して描写することで、そういったイメージを表現しようとしているのだとは思うが、『ユマニテ』の時のように強く感じさせられなかったのは、表現が弱いからではないだろうか?例えば叔父さんにパンツを履かせる時は、性器を描写すべきだし、主人公女性の着替えのシーンでも、少なくとも胸を出し(それが牛の乳と大いに対比させられるだろう)、ケツをまくって見せるシーンでも、もう一歩踏み出すべきではなかったのか?獣医学的見地から、人間の肢体を見せつけるべきだった。」
黄泉の犬(*****)
「藤原新也の、こういうのはなんて言うのだろうか、図書館の分類は「914」なのでエッセイにカテゴライズされるのかもしれないが、実体験に基づく藤原正直な声がストレートにドカンと来るから、本当に久しぶりに一気に読んでしまった。まあ読みやすいからではあるけれど。」
おまじない(*〜**)
「西加奈子の短編集だが、『おまじない』は文庫本の題名であり、収録作品に表題作はない。しかしやはり短編っていうのは、どうしても物足りないね。」
飼う人(*〜**)
「柳美里の短編集だが、『飼う人』は文庫本の題名であり、収録作品に表題作はない。一番、気になったのは『イエアメガエル』で、母子家庭の息子の高校生の語り口によって描かれているが、日常のシーンを丁寧にしつこいくらいに描写しながら、ラストの持っていきかたにびっくりさせられた。」
JUNK HEAD(****)
「ほとんどの仕事を、たった一人でやってしまった、ということで言えばニック・パークのようなものだが、突然、彗星にように現れた日本人=掘貴英の101分の長編パペット・アニメーション。今、公式サイトで監督について読んだら、そんなには若くない人で、この作品は最初、2009年に30分の短編として発表されたようだ。そこから数えても10年以上が経っており、その間、ずっとこれを作り続けてきたわけだ。とにかくみんな、金を払って劇場で観よう。そうすれば、未だ未完成の本作の続きを観ることができるよ、きっとまた10年後に。」
ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹(*)
「『ヴァージン・スーサイズ』の原作。この作家は、恐らくJ・D・サリンジャーの影響を強く受けているのではないだろうか。それにしても翻訳ということもあるのだろうけれど読みにくかった。それに、いくらなんでもそこまで抑圧された家庭環境とまでは思えなかった=描写されていなかったように感じるし、屋根の上でなんて無理だよねえ。ま、映画化したくなる気持ちは分かるが。」
フィールズ・グッド・マン(***)
「こんなカエルのことなんて、全く知らなかった。また恥ずかしながら知らない用語があったりして、なかなか難しい側面もあったが、面白かったことは間違いない。オルト・ライトなんて言葉、今、調べてみたが、Alternative Rightということは、代替右翼とか新右翼ということか、つまりインターネットという新しい、と言っても、もう登場してから随分になるが、マス?メディアによって、今まで黙殺されてきた、あるいは、軽蔑されてきた、表立ってどうこうするのは憚られた考えが、露わになってしまった、ということか。それにしても感じさせられるのは、人間の弱さとか愚かさ。」
天国にちがいない(***)
「少しナンニ・モレッティ調か?いずれにしても好きなタイプの作品だし、最初のうちは、とても楽しみながら観ていた、のだが、戦車が登場して、ん?軍を動かすほどの力がある巨匠だっけか、あるいはモックアップで実物大の戦車を作ったのか?まさかCGじゃあるまい、と思っていたところ、今度は鳥だ、うーん、うまくしつけたのかなあ、ここまでリアルにCGではできないどう?と思ってもみたが、繰り返しパソコンに割り込む鳥を見るに至っては、これは絶対にCGだと確信。そうなってくると、飛行機の翼の揺れや、空軍機や航空ショーや人っ子一人いないパリの街や、そこらへん全部を疑いはじめてしまった。いやCGが悪いわけではない。きっとこの監督は、絵コンテ通りに撮りたいのだろう、そのためにはCGも厭わない。しかしなあ、パリからニューヨークへの変化は唐突すぎる。結局、」
アリ地獄天国(**)
「いつもの舘で。題名だけで観ようと思ったものだから、きっとインディーズ系ガチャガチャ映画だろうと、それを期待して観はじめたのだが、まさかのドキュメンタリー。この手の、解雇された(本作では解雇されてはいなかったが)人物の似たようなドキュメンタリーを観たことがあったが、その場合と比べても、本作の主人公は、とても普通の人物だ。それにしても、アリさんマークの引っ越し屋さんが、こんなだとは知らなかった。」
NOMADORANNDO(****)
「クロエ・ジャオ監督とは中国人らしい、が、作品からはそういった国籍は一切感じられなかった。順番に描かれるエピソードは、いささか注文通りで単調ではある。しかし目をつけたアメリカの状況は、アマゾンでバイトしていたりと今日的であり強い説得力を持つが、どうやら原作があるみたい。しかし主演女優も、老いた体をものともせずヌードを晒してまで描く価値ある作品だと判断したからだろうし、実際そうだ。老いて険しくなった表情は、まるでオッサンみたいな風貌となっているのは、監督の演出かもしれないし。」
ルクス・エテルナ 永遠の光(***)
「決して見逃してはいけないギャスパー・ノエ作品を、いつもの館で。相変わらず短いが、これくらいで丁度いい。古いのか新しいのかわからんが、面白かったことは面白かったが、やや、テーマパークのアトラクション的ではあるかなあ。」
アウステルリッツ(***)
「セルゲイ・ロズニツァ〈群衆〉ドキュメンタリー3選のうちの一つで、2016年ドイツ映画だから随分新しい。ナチスの大量虐殺が行われた収容所で、今や観光施設となって、ほんとうに多くの観光客が列をなして、しかも夏だからだろうか、90%くらいの人がTシャツ姿で、暑い中を広大な敷地をうろうろさせられて、うんざりしている様子を淡々と長回しで撮影している。特に最初の出入り口のシークエンスは、本作の作風も分からない状況での長回しなので、余計に長さを感じさせられた。ところが、どっこい、こちとら変な映画ばかり観てるんだから、これくらいでは驚かないよ。カメラは望遠レンズを使い、比較的離れた場所から撮影しているのだろう、だから小津作品のように?垂直がちゃんと垂直で歪みが少ない端正な映像で、尚且つ白黒。カメラが遠いことから、観光客は、その存在をあまり意識せず自然な振る舞いができる。凄惨な出来事が起こった場所であるにもかかわらず、観光客はダラダラして、こともあろうに死体を焼いた焼却炉の前で記念撮影する始末。しかし個人的には、そういった振る舞いに怒りを覚えるよりも、こうやって、誰でもが自由に制限されずにダラダラとこの場所を見物できる現実が、一応、表現されているような感じがした。しかし、この平和や自由は、こういったダラダラした平凡な人間は簡単に右にも左にも流される大衆であることも示唆しているような気がする。」
白笑(**)
「深沢七郎の短編小説。『楢山節考』もそうだが、甲信越の山奥の寒村では、食べ物も貧しいが男女の出会い(結婚)なども選択の余地がなく不自由だったりしたのだなあ。」
楢山節考(**)
「深沢七郎の短編小説。恥ずかしながら初めて読んだ?か、昔、読んだことがあるような気もするが。題名から察すると、例えば多和田葉子の論文調の読むのに骨の折れる作品みたいに、なにやら難しげなイメージだが本当に読みやすく本当に短い。」
欲望の旅(*)
「ブリュノ・デュモン監督作品。ひょんなことからDVDが手に入ったので観た。ブリュノ・デュモンには、最初から注目していたが、作品が上映されてもレイトで1週間とか、そんな感じになってしまうのも、本作の場合は仕方ないだろうなあ、人間の獣としての本能、ということなのかなあ。最初から、チクチクとヤな感じが表現されていた。しかしラストの行為には共感できないのだが、これは実際の事件か何かをモチーフにしているのだろうか?ミヒャエル・ハネケの初期の作品(湖のほとりの小屋での事件)を思い出す感じ。」
群衆(**)
「セルゲイ・ロズニツァ、ドキュメンタリー3選ということらしい、いつもの館で。最後まで観ていて、これはプロパガンダ映画なのか?と感じていたら、最後にスターリンの所業について説明があったから、そいうわけではない。それにしても、まるで映画のようではある。」
イディオッツ(☆☆☆☆☆)
「ずいぶん前に、いつもの館で観た作品で、やはりトップクラスの一つだが、ひょんなことからDVDが手に入ったので観た。やはり何度観てもいいなあ。」
時計仕掛けのオレンジ(*****)
「これまでずっと、自分にとって最高の映画の一つのはずだった。しかし実は学生時代(確か1年生の時)に一度しか観ていなかったのだ。一度の体験で極めて大きな衝撃を受け、その後自分のイメージの中でだけ繰り返し再生し、どんどん神聖化してしまっていたのだろう。で、昨日、ひょんなことからDVDが手に入ったので観た。初めて本作を観てから何十年が経ち、今や本作以外にも多くの優れた作品があることを知っている。たとえば『どぶ』もその一つだし、ラース・フォン・トリアーなんて奴もいる。また、本作の美術・建築・衣装にも大きく影響されたのだが、例えば建築にしても、もっと凄いものがあることを今や知っている。また演技も、マルコム・マクダウェルはやはり素晴らしいが、暴力シーンなどは、もっと痛くできるだろうに、などと感じてしまった。さらに言うなら、編集というか構成というか全体の流れというのか、それが案外、単純で簡単であることも、あっけない感じがした。尤も、本作は、早回しなど、敢えて、カチャカチャした表現をしているけれど。そういった、時間経過による一種の『古びた感じ』が本作に否応無く覆いかぶさっているように残念ながら感じるのだ。一方『どぶ』には、『古びた感じ』が全く無い。」
山の焚き火(☆☆☆☆☆)
「ずいぶん前に、いつもの館で観た作品で、やはりトップクラスの一つだが、ひょんなことからDVDが手に入ったので観た。やはり何度観てもいいなあ。」
ナショナル7(☆☆☆☆☆)
「ずいぶん前に、いつもの館で観た作品で、やはりトップクラスの一つだが、ひょんなことからDVDが手に入ったので観た。やはり何度観てもいいなあ。」
ユマニテ(☆☆☆☆☆)
「ずいぶん前に、いつもの館で観た作品で、やはりトップクラスの一つだが、ひょんなことからDVDが手に入ったので観た。やはり何度観てもいいなあ。」
ルージュ(*)
「柳美里の小説。今まで読んだ柳作品の中で最も柳らしくない。それは決して悪いことではなく、作家としての力量を示すことでもあるだろう。柳らしくないからだろうか、とても読みやすかった。」
どぶ(☆☆☆☆☆)
「新藤兼人監督作品で何度も観ているが、また観た、そして確信した、20世紀とともに映画が始まって今日まで作られた古今東西ありとあらゆる映画の中で、やっぱり『どぶ』は絶対にトップクラス。主人公のツルは売春するために、まるで『志村けんのバカ殿様』みたいなメークと出で立ち。人間が本能を露わにする時神々しいのだ。ツルが残した『小説』は稚拙だったが、詩のように美しかった。」
家族の標本(*)
「柳美里の、一応エッセイ集ということになっている。だから図書館の分類も914である。しかし読み始めてすぐに、これはエッセイ...というよりも、ルナールの、こういった短文が確かあったよな、あれに似ていると思った。そもそもエッセイの定義が、よくは分かっていないのだが、短いからと言って、軽く読めて気晴らしになるような程度のものではなく、むしろ重たい気分にさせられる、それは良い意味で。」
家族シネマ(**)
「柳美里の小説。これまで何度か読んでいるが再読。読んだのは『芥川賞全集』なのだが、これには審査員の選評が載っており面白い。これを読むと、自分がかねがね感じ以下に書いてきた通りのことが、やはり書いてある。例えば池澤夏樹は、『何本も柱を立てて、どれも梁に届いていない』と言っているが、これは、1:突然の家族映画撮影のこと、2:仕事のこと、3:変な陶芸家とのこと、を指していると思う。全くその通りなのだが、どうやら最近、気付いたのは、柳作品は、個別に読むよりも、トータルで感じるべきなのではないか、と言うこと。いや、そんなんおかしいだろ、と言われればそれまでなのだが、それにしても、そういった読み方をさせられるのが柳作品なのだと思う。結局、柳の生い立ちや男性遍歴やもろもろを知った上で、本作に立ち戻った時に感じるものもあるのではないだろうか。」
JR上野駅公園口(**)
「柳美里の小説。珍しく、と言っていいのだろう、柳自身やその家族をモチーフとはしていない作品で、2014年作品だから柳作品の中でも最近の作品の一つ。本人のあとがきによれば、執筆のために上野のホームレスに取材を始めたのは2006年で、関東東北大震災と原発事故が起きる前のことだという。もし、震災と原発事故が起きていなかったら、本作の、特に終盤などは違った書き方がなされていたのだろう。それにしてもである、日本国籍ではない彼女が、これほどまでに日本を愛しているのだ、原発周辺地域に通ってまでして。」
すばらしき世界(*)
「西川美和監督作品、なので観た。まあ、どっかで聞いたことのある話ではある。注文通りでもある。だから悪いということではない。きちんと出来ていた。」
天使/L'ANGE(*)
「いつもの館で、パトリック・ボカノウスキー監督作品、とのこと。わけわからん系繰り返しの美学バージョンクエイ兄弟風味...か。」
もやし(*)
「柳美里の小説。薄い文庫本の、さらに半分しかない本当の短編で、『フルハウス』の片割れ、B面みたいなものか。浮気の側の女とされた側の嫁とした男らの修羅場を描いている。柳を研究している文学部の学生も多いことだろうけれど、自分もやりたくなった。」
フルハウス(**)
「柳美里の小説。薄い文庫本の、さらに半分しかない本当の短編で、実は大昔に読んだことがあるのだが、なんだか読みにくいなあという印象が先立って、柳から離れてしまったきっかけとなった作品でもある。で、あらためて読んでみたのだが、やっぱり読みにくい。ただ、こうやって柳作品を色々読んでみてから再読すると、なるほどいつもの柳スタイルであった。つまり主人公は限りなく自身に近い人物で、父や母や妹や、かつて柳が幼い頃、親元から離されていたことや、その後親戚と同居していたというような複雑な状況が本作で生かされている。それと、汗や汚物などの生々しい描写。あ、あと自転車も。きっと初期作品の場合、無理して『小説』にしようとする意識と自我とに葛藤の末、辿り着いた表現なんだろう。」
表現のエチカ(****)
「柳美里が『石に泳ぐ魚』裁判について書いた論文で、1995年12月号『新潮』に掲載されたもの。エチカとは、論証とでも言えばいいのだろうか、つまり『表現ということについての論証』という題だと思ってもいのだ。そして、まさにその通りの論文で、特に最初の部分が素晴らしい。しかし確かに、作品の登場人物のモデルとして書かれた側は辛く不愉快な気持ちにさせられたのかもしれないが、本論文を読むと、柳は最初から当該女性に『書くよ』と言っており、二人にはそれなりの交流関係があったわけでもあり、その、一定の信頼関係の上での執筆でもあったように読めるのだが、それにもかかわらず訴えられてしまったことは、いささか解せないけれども、ひょっとすると、訴えた本人よりも弁護士が積極的に動いたのだろうか。」
ブレスレス(*)
「コレジャア大喜利のお題だよ。『こんな医者はイヤだ...Mの心臓外科医』」
恋人〜十二のトイレ(十一)〜(***)
「下作品を読むための1994年9月号『新潮』だったわけだが、同書の中の作品。うーん『石に泳ぐ魚』に比べて読みやすいなあ。(十一)ということだから連載されているのかもしれなくて、ごく短編ってのもあるが、登場人物が主人公を含めて3人しかいないし、筋が明解だから、するすると読めてしまう。」
石に泳ぐ魚(*****)
「柳美里の小説で、下に書いた通り既に読んでいるのだが、これは1994年9月号『新潮』初出バージョンで、裁判の結果、書き直す前の状態のもので、やはり裁判で争われた当該部分があった方が作品として明解になると思うのだ、いや勿論、最初からそういう気持ちで読んでいるからかもしれないけれど、しかしこの、限りなく柳に近いであろう主人公が、在日韓国人であるという複雑な境遇を、周囲の様々な人々との泥沼のような関係の中で、特に純粋?な韓国人との文化的な違いに戸惑い不快感を味わわされたりして、しかし自分の境遇を変えられるわけもなく、家族からも恋人からも苛まれも泥沼の中でがき苦しまざるを得ない自分の状況が、里花の決して取ることのできない頰の腫瘍のごとく固まって動きようのない石の中でもがく自らの姿を浮かび上がらせ描くために、どうしても必要な部分だったのではないだろうか。ところでやはり柳の作品は読みにくいと感じる理由の一つが、登場人物の多さのせいではないだろうか。本作では、風元、辻、ゆきの、金、里花、母、父、弟(純晶)、妹(良香)、史子、北山、三木子、悦子、李、その上よく分からない柿の木の男まで出てくる始末で、その他にもまだ固有名詞が出てくる。これはおそらく柳が劇作家だったことも一因なのではないかと思う。演劇や映画の場合、今くらいの登場人物がいてもおかしくはないだろうけれど、少なくとも柿の木の男は不必要だったのではないだろうか、などと書くと、分かってない、と思われるかもしれないが。それにしても裁判の経緯をインターネット上から見ることができるけれど、柳の書き方は本当に私小説的な方法であることが分かる。もちろん書かれた側に対する思いやりは必要だが、本作は、柳だからこそ書けたのだということだけは間違いない。そして繰り返すが、ノーベル文学賞に近いよ柳は。」
雨と夢のあとに(***〜****)
「柳美里の小説。これは柳版『父と暮らせば』だ。健気な少女の妄想が産んだ脳内描写に涙さえ誘われるのに、裏表紙の簡単な解説には、幻想ホラー小説と書いてあるが、角川書店よ、これがホラーか?本人がそのつもりで書いたのか?」
ねこのおうち(*)
「柳美里の小説。小学生高学年から中学生(児童・生徒)向け、推薦図書風の文体で描いている。だから港先生(この名前すらも)は、『〜して進ぜよう』などという喋り方をするし『ブフォブフォ』と笑うのだ。だがその実態は、題名とは裏腹に暗く、例によって柳の少女時代が下敷きにもなっているので、ネバネバしている。本作は4つの章から成っているが、悪い...柳、最後の章はきちんと読んでない。」
声優夫婦の甘くない生活(**)
「イスラエル映画ということらしい。冷戦終結・ソ連崩壊によって、ソ連にいたユダヤ人がイスラエルに入国できるようになったらしい。60歳を過ぎてから、やっと約束の地にたどり着いた夫婦の話なので、ソ連風のメランコリックな調子で描写されていた。夫婦役の二人(特に奥さん役の女優)は、アキ・カウリスマキの常連に似ていた。」
黒(**)
「柳美里の小説。これは東由多加に向けたチンコン...元へ、鎮魂歌だ。本作は3つの章から成っているが、悪い...柳、最後の章はきちんと読んでない。しかしそれでいいのだ、だって今の日本で、読者のことを考えないで書ける作家が、一体、何人いるだろう。」
グッドバイ・ママ(*〜☆☆☆☆☆)
「柳美里の小説。下に書いた単行本『山手線内回り』の中に収録されていた「JR高田馬場駅戸山口」を大幅に加筆修正して改題したものが本作とのこと。実は「JR高田馬場駅戸山口」は途中で読む気が失せたため中断したのだが、何か気になってはいた。もしかすると、コレは、凄い作品なのではないか?いやマジで、ひょっとして柳は、もう、ヘンリー・ミラーみたいになってしまっているのでは?という気配を感じながら中断してしまっていたのだよ。そして今回、やっぱり実はスッ飛ばしながら読んだんだが、ニンニン、うぐぐぐぐ、やっぱりちょっと只者ではない気がするニンニン。ただでさえ小さな子供を育てるのは大変なことだろう。まして夫は単身赴任で長野に居り、祖父母が同居するわけでもないから、母はたった独り孤軍奮闘するしかない。一人息子である、大事に、そしてできれば優秀に育てたいのであるニンニン。孤独な母は、幼稚園の不条理な躾や、マンションのゴミ出し問題や、原発事故の放射能や、旧日本軍の人体実験までを敵に回して戦わなければならないのだ、ニンニン、誰の助けも借りられずに。加えるならば恐らく、主人公には若干の発達上の課題があるようにも見受けられるから、なおさら苦しい。やっぱり柳は、ノーベル文学賞に近いのでは?ニンニン。」
山手線内回り(**)
「柳美里の小説。少し前に、やっぱり女性器の名前を連呼する作品を読んだ気がするが『受難』だったかな、それに負けていない。もう、いっそ全ページそうしたら。」
燃ゆる女の肖像(***)
「とても丁寧に作られた作品。映像も、まあ例によって、フェルメールみたいだったりと凝っている。必要以上に感情的になるのではなく、とても抑揚を抑えた表現も好感が持てる。音楽も、これが妙に優れた民族音楽風のコーラスだが、どうだ、と言わんばかり巧妙な使い方も計算され過ぎているような、うーん、タイトルバック?からしてセンス抜群で、作品全体にデザインの意識が行き届いている、のだが、うーん、形はカッコイイのだがなあ、スタイリッシュ過ぎるのだろうか。」
8月の果て(☆☆☆☆☆)
「柳美里の小説。長く辛い日韓併合の果てに日本がアメリカに負けてやっと全面降伏したと思ったら今度は朝鮮戦争勃発とさらに身内の反共運動やら何やらで翻弄された柳の祖父の人生を中心として、女性にだらしなかった彼ゆえに3人もの妻をめとり、多くの子供達が生まれたその人達の人生もふくめた大河ドラマではある。ただし、だからと言って、これを反日的な文学と決めつけるのは早計だ。何故なら柳は自分を雑巾のようにボロボロにして絞り出すようにして書いており、自らと自らの系類をまるでサンドバッグのようにして自らの祖国の人々と自らが生まれた国の人々の夥しい血によって描いているからだ。あとがきに高橋源一郎が、本作を学生と読んだ時に、学生から、この作品が『美しいと感じた』という感想を述べたそうだ。まさに自分も美しさを感じたわけだが、その理由を考えてみた。1:本作の表現が詩のような文体であることから。柳の作家としてのキャリアが劇作家からスタートしたことも大きく影響しているのではないか。2:虚飾なく率直に描いているから。某国前首相や現首相が美しくないのは、虚飾にまみれているからではないか。3:生きること直にが生々しく描かれているため神々しく感じるから。考えてみてほしい、柳は自分が望んで在日になったわけではない。日本で生まれ日本語で考え、話し、書く人だ。柳もまた、ノーベル文学賞に近い日本人、いや韓国人である。その時、某国前首相や現首相はどんなコメントをするんだろうね。」
タイトル、拒絶(**)
「山田佳奈という若い女性監督作品。いつもの舘で。この監督は、もしかすると大化けするかもしれない、それくらいエネルギーに溢れていた、なにしろ最初からトップギアに入りっぱなしで最初から最後までフルスイングなのだ。二つ、気になったこと、一つ目は、やはり性表現がしっかり描写されてもよかったのではないかということと、二つ目は、冒頭シーンの女子のブラジャーが、胸の大きさに合っていないのではないかということ。」
ホモ・サピエンスの涙(*****)
「ロイ・アンダーソン監督作品なので見逃すわけにはいかない。いつもの館で。さて、ロイ・アンダーソンはフィルムではなくデジタルで撮っているのだろうか?写真をRAW現像するようになって気づいたことは、彼の映像は、輝度をうんと抑えているということ。そのことで、絵画のような質感を実現しているように思う。もちろん役者の化粧からオープンセット?まで徹底的に色彩や質感を整えていることは間違いないだろうが、輝度とかハイライトの部分で操作しているような気がする。本作は、どちらかと言えば、本来のロイ・アンダーソンに帰ってきたという感じではある。しかしなあ、これだけの映像を作ることができるのに、脚本が良くないんだようね。だから74分しかない作品なのに、長く感じてしまう。」
ゴールドラッシュ(*)
「柳美里の小説。実は、半分くらいからは読み飛ばしてしまった。柳はまず劇作家として、そのキャリアをスタートさせたわけだが、そのことが良い方にも悪い方にも作用しているような気がする。悪い方と言うのは、つまり書きすぎると言うのかな、もっと読者に想像させて欲しい部分があるのに、まるで演劇の台本のト書きのように説明してしまうのだ。だから『エッセイ』という建前で書いた方が余計な力が抜けて素直に読めるのだ。」
まちあわせ(*****)
「柳美里の小説。これは比較的、最近の作品だろうか...今風の女子高生を主人公に描いているせいか、どこか金原ひとみ風。しかしそれでも、主人公の向こうには柳の姿が透けて見える。インターネット上の掲示板に書かれる言葉の、身勝手さ、無慈悲さ、思いやりの無さ、グロテスクさが、人類の終末を表すようで息苦しい。」
男(**)
「柳美里の小説、と言うより、こちらこそエッセイに近い感じがする。男の肉体の色々な部分をクローズアップして、柳の感想と、作中小説としてのポルノが描かれていく。そのポルノは、いかにも男性向けの扇情的な『男にとって』分かりやすい描写を意図的にやっている。それにしても、と思うのだが、本作でも、全てではないにしても柳の実体験に基づくのであろう出来事が次々と描かれていくのだが、柳がそんなに男性受けするタイプだとは思えないんだけどなあ。」
水辺のゆりかご(*****)
「柳美里の小説。作品のラストで本人が『エッセイ』と認めているが、小説と名乗ってもおかしくない。ただ、そういった位置付けでの連載だったことから、むしろ力みが取れて、柳の、もしかすると、と言えるほど多くの柳作品を読み込んではいないで、こんなことを言うのもおこがましいことだが、彼女の悪い癖が出ておらず、むしろ清々しく人間の有様が描かれている。」
ウォーク・イン・クローゼット(**)
「綿矢りさの小説。芥川賞を10代の女子がダブル受賞した時、綿谷の作品の方が自分には好ましく感じた。高校生の優しい心理が、フワフワと深刻ぶらず切り抜かれていて新鮮で、金原の作為的にショッキングな設定を見せつけるやり方より、ずっと良いと思ったものだ。しかしその後は、次々と繰り出され、年齢とともに推移していく金原作品の方が魅力を発揮していったのに対して、綿谷は、そのままの位置で止まってしまっているように見えるのだ。実際、下の作品なども、その通りで、本作もまたフワフワとしている。しかし、それが綿谷らしさなのかもしれない。この、とらえどころのない感じ。本作など、明らかに読者の対象年齢が限定されているよね、と言うことは、どちらかと言えば、読者を楽しませるタイプの、つまり大衆文学(この表現は、あまり好きではないが)側に立っていると思っていいのだろうか?綿谷さん。いや勿論、必ずどちらかの立ち位置を決めなさい、などということは、ないのだから別にこれでいいのかも。」
大地のゲーム(*)
「綿矢りさの小説。これもまた、3.11の震災から強烈なショックと動機を得て書かれた作品。なのだが、金原ひとみが、結婚出産子育てと自身の成長とともに作品も推移していったのに対して、綿谷は、芥川賞受賞時の10代のままで立ち止まっているような感じがする。物語も、どこか漫画的なのだが、もしかすると若い世代に向けて書いたということか。」
石に泳ぐ魚(***)
「柳美里の小説。以前読んだことがあったか?まず感じたことは、例えば金原ひとみや川上未映子などに比べても、うんとネバネバしたねちっこさ。性表現なども、先の二人は案外あっさりしており、どちらかと言えば男っぽいのに対して、柳の場合は、まるで臭いまで感じさせられるようで、とても女性的。あるいは、二つの国の間でがんじがらめにされて身動きがとれない出自の人の、」
友達やめた。(***〜**)
「いつもの館で何か観たい作品はやっていないかと上映作品の予告編で選んだのが本作だが、この監督作品は以前、1本、観たことがあった。自分は予告編で、割と、観る観ないを判断するのだが、今回も正しい選択だった。自身が聾唖である今村彩子監督の友人でアスペルガー(のグレーゾーン?)のMさんと自身の関わりを映画化している。聾唖の監督は、コミュニケーションの方法が手話(言葉も話せるけれど)であったりすることから、余計にもどかしく感じるのだろうか、それ故に、なんとか問題を解決しようと努力する、ように感じる。何故なら、自分だったら早々に諦めてしまうだろうことを諦めないのだ。」
異端の鳥(***)
「チェコ・スロヴァキアとウクライナの合作ということらしい。モノクロ映像が美しく3時間近い長編で、なかなかの力作ではあるし、大いに期待して観たのだが、最終的に、ドカンと腹に来るような満足感を与えてはくれなかった。言いたいことは分かるのだ、次から次へと様々な暴力が描かれる。しかしなあ、それぞれのシークエンスの連続が、あまり有機的に連関していないように感じさせられた。あんなにも次から次へと不運に見舞われながら、不幸中の幸いにも生きながらえることにも、いささか御都合主義を感じてしまった。ナチにつかまったのに逃がしてもらえたりとか。それと、ひょっとするとなんだが、雪が舞うシーンや鳥の群れのシーンは、CGじゃなかろうか、いや、それでダメってワケでもないが。」
破局(*)
「遠野遥の小説。ちょっと大江健三郎に似てる?イーヨーがプールで溺れそうになった話とか...ああいった、心にチクチク嫌な気分が積み重なっていくような感じ。この主人公は、少し発達上の課題があるように見受けられる。物事を一々、こんな風に反芻し確認し段取りながら生きており、その段取り通りに上手くいかなかった場合にパニックに陥る人なんて、いるのだろうか?大学生なんて、もっと能天気だと思うが、しかしこういった考え方や行動をする人もいるかもしれないね。ただ、多くの人に共感できる作品かと言うと、そうではないかなあ。同じ、発達上の課題を抱えているらしき登場人物とすれば『コンビニ人間』には共感できたのだが。」
目玉の話(***)
「バタイユの短編小説、恥ずかしながらバタイユを初めて読んだ。少し前に『リベルテ』という映画を観たが、きっとバタイユなんかも下敷きとなっているのだろう。」
オー・パン・クペ(*)
「1967年のフランス映画。ギィ・ジルという監督。時代からしてゴダールなどのヌーベルバーグの影響を受けている、と言うより、そのムーブメントを担った一人なんだろう。セリフに『ビートニク』という言葉が2度ほど出てきた通り、バロウズやケルアックにも影響を受けたであろう、散文詩のような脚本。そもそもゴダールが、フィルムを逆回ししたり同じフィルムを繰り返したりという方法自体が、バロウズの『カットアウト』のフィルムバージョンと言えるし、また美術の世界でも同時期に『ハプニング』と言われる、要するに、何でもありの時代の洗礼を受けてしまっているわけだから。ただ、その割にはマトモに出来ていた作品で、色彩やテクスチャーを意識した映像、傷つきやすく内面的・感傷的なイメージなどの繰り返しで、そう言えば、当時の日本のテレビドラマやCMなんかも、こんなイメージだったかもしれない。しかし、短い作品なのに観ながらも『まだ終わらないんか?』と感じてしまったことも白状しておこう。」
mid90s ミッドナインティーズ(****)
「ジョナ・ヒルという監督のアメリカ映画。男の子なら誰でも通る、少年から、少し大人になる時間。90年台だから?ってことだろうか、画面も4:3で、映像もフィルム調、いや本当にフィルムで撮ったのかもしれないけれど、そこまでする程、昔じゃないだろうに。それにしてもなあ、1990年代なんて、ついこのあいだ、だよなぁ。しかし40ドルの価値が、日本円では、そう大きく変化していないことが、日本の現状を物語ってはいるが、物価が安定していることが、それほど悪いことなんだろうか、例えば酒なんて昔の方が高かったよね、飲み会とか昔の方が高かったよね。もともと日本の物価がバカ高かったのではないのか。」
ラヴレター(*)
「岩井俊二の小説。やっぱり、映像が伴ってこそなんだろうね。岩井の頭の中にある、心の機微を表現するためのヴィジュアルが、文学としては表現しきれていないということか。」
ブックスマート 卒業前夜のパーティーデビュー(*)
「変な心配をしてしまう、制作側がよくゴーサインを出したなあと、つまりこの作品が、どの程度、どういった層に受け入れられるのか=千何百円出してまで観てもらえて、しかも喜んでもらえるのか、ということは当然のことながら十分に検討したんだろうから作品が出来、こうして日本でも興行されているわけだが、果たしてアメリカの人口の何割が、この登場人物達に共感できるのだろうか?、この一握りの裕福であるがゆえに教育を受けることができる人物達に。ひょっとすると、若者向け小説かなんかの原作があるのかもね。book smart=帳尻合わせ」
番犬は庭を守る(*)
「岩井俊二の小説。これもまた、3.11東日本大震災のショックが書かせた作品だろう。だから未来に夢が無い全く救いようの無い話で、時間が経ち世代が後になればなるほど状況は悪化していく。才能溢れ力強く生き抜いた祖先に比べ子孫はか弱い。ただ、力強さゆえ20世紀の人類=私たちが犯した罪を、子や孫やひ孫が償っているのだ、自民党の政治家よ!官僚よ!」
リベルテ(**)
「アルベルト・セラという監督の作品で、この人の作品は初めて観る。カンヌで『ある視点部門』も確かに納得ではある。ルイ16世の時代フランス革命前夜の話とのこと。この時代の気分を十分に理解していることが鑑賞の条件だろう。貴族達は、ちょうど観覧車のゴンドラのような籠一つで森に逃げ込んだのだ。財産は失われ、そのちっぽけなゴンドラだけが唯一の城のごとく、森の中のそこかしこにポツンと、それぞれの貴族に一個が置かれている。享楽の限りを尽くしてきた連中の最後の晩餐よろしく最後の性餐とでも言うのだろうか、やがて訪れるであろう恐怖から逃れるためでもあろうか?はたまた此の期に及んでもなお身に染み付いた享楽・退廃の味が忘れられないのか、貴族達はまるで獣(鹿)のように、おずおずと一定の距離を保ちながら、異常な性行為を、森のそこかしこで、おっ始めるのだ。夜は長い、様々な性行為が、ゆっくりと繰り広げられるわけだが、この、夜のシークエンスが延々続くのだよ。なんと言うか『パラサイト』みたいな作品がパルムを取ってしまうのも、ある意味ではうなづけると言うか、要するに、カンヌがこういったタイプの作品ばかりになってしまい、カンヌ疲れが出たからではないだろうか。さて、享楽・饗宴・快楽の限りを尽くし、行き着くところまで行き着いてしまった連中は、普通の性行為では、もう満足できないんだね。一つだけ偉かったのは、ボカさなかったこと。日頃◯◯◯◯にも表現性がある、と公言してはばからない自分だが、しかしそれでもなあ。残念ながら、この手の映像なら、映画はもう追いつけないのではないだろうか。それにしても相変わらずなのだ映像文化ライブラリーの高齢者のマナーの悪さは。上映中にトイレに行くのはしかたがないとしても、そのことが分かっているのならトイレに近い席に座れよ!本当にもう、ゆうゆうとスクリーンの前を横断するのは絶対にわざとやっているのだろう。」
赤い闇 スターリンの冷たい大地で(*)
「こういう系=実話物だとは思わなかった、まあ、雨の日で撮影も行けないから暇つぶしに、しかもタダで観たのだから文句は言えないが、やけに客が多いなとは思ったのだ。ウクライナの子供が歌うシーンがよかったけれど。」
父と暮らせば(☆☆☆☆☆)
「井上ひさしの戯曲。再読して気づいたのだが、この父が実在しているわけではないことは最後にバラすのではなく、比較的最初の段階から匂わせて、中盤にはハッキリとバラしていたのだった。むしろそのことで、観客は人間の有様を深く理解することができるわけで、井上は巧妙にしかけているのだ。本作は1994年に初演されたということだから比較的新しい作品だ。本作の構造=死んだはずの人物を実在しているように描きつつも途中からそのことをバラしていくやり方は、高野文子の『田辺のツル』にも似ている。もっとも『田辺のツル』の場合のツルさんは死んでいるわけではなく、痴呆症を患っているおばあさんを幼い子供の姿で描くというギミックを用いているのだが、本作との共通点は、そのこと(ギミック=実は死んでいる、実はおばあさんである)を途中でネタバラすことだ。最後まで黙っていて、実はこうでした、どうですか?感動的でしょ?というやりかたの方が、むしろ作品としては驚きはあるけれども深みが足りなくなる事を、二人の巨匠は本能的に分かっていたのだ。いやもしかすると井上は『田辺のツル』を読んで、ここからインスピレーションを得た可能性もあるんじゃないだろうか。井上の書棚に『絶対安全剃刀』があったりして。」
黙阿彌オペラ(*****〜☆☆☆☆☆)
「井上ひさしの戯曲。演劇というのは不思議なもので、非常な抽象性をもつことができる。もっともっと演劇を観るべきだった、映画ばかりではなく。」
紙屋町さくらホテル(*****〜☆☆☆☆☆)
「井上ひさしの戯曲。井上の全作品を読んだわけではないけれど、戦争というものに対するスタンスが明快で清々しい。某国首相は、、、、読むわけないか、漢字も読めないんじゃ。」
自転車屋さんの高橋くん(*****)
「リイド社がやっているWEBサイト『トーチ』で読む事ができる漫画。これも映画化権取得必至、早い者勝ちだ。」
太鼓たたいて笛ふいて(*****〜☆☆☆☆☆)
「井上ひさしの戯曲。恥ずかしながら、井上が、文豪をモデルにいくつかの戯曲を描いていることを知らなかった。本作は、その中でも晩年期の作品。林芙美子については、あの素晴らしい『放浪記』などいくつか読んだことがあるが、戦争礼賛期の作品を読んだことがなかったのだが、彼女らしいと言うのか、彼女の持っている大衆性が、そうさせたのだと思う。林文学とは文学の最も純粋な部分=本質を、余分な修飾をとりはらって、骨格や内臓を赤裸々に見せつけることなのだ。本作中でも語られているが、林の作品は時に『貧乏や、戦意高揚や、戦後』をネタに書いて儲けている、と批判されてきたようだが、林にそういった自覚など、あるはずがない。林は大いなる大衆性を持ちながら、その感情を文学にまで昇華することができてしまのだ。文学には、どんな場合でも内面性の吐露という側面があり、言わば自分の恥をさらけ出すことなのだ。文学者が誰でも哲人であるわけがない。川端康成を見るがいい、川端の女性観が嫌ほど見せつけられるではないか。金原ひとみを見るがいい、18歳からの自分の成長出産子育てとともに文学が生々しく変化していくではないか。壇一男を見るがいい、無邪気なまでの大衆性と文学の本質が絞り出した美しい吐露こそが芸術性なのだ。それを井上は、それに臆することなく、がっぷり四つに組んで戯曲に仕立て上げているんだよなあ。井上もまた凄いのだよ。」
ヨーコさんの”言葉”(*****)
「佐野洋子が繰り返し語っている言葉に挿絵をつけた、一種の絵本と呼んでいいのか。挿絵は佐野ではなく、北村裕花という人が描いているが、かなり魅力的な絵であり、むしろ佐野が描くよりも良い。佐野の率直な言葉に、がっぷりと四つに組んで決して負けていないのだ。昔から、佐野の絵を好きではなかったのだが、今回、佐野の文章をいくつか読んでみて、佐野は、絵よりも文章に強い魅力があると思った。」
あっちのヨーコ こっちの洋子
「佐野洋子の子供の頃や、兄の写真を見ることができて嬉しい。」
神も仏もありませぬ(**)
「佐野洋子の、これは、エッセイ。」
タゴール・ソングス(**)
「なぜか日本人監督が撮っている。どういういきさつで、この作品を撮ることになったのだろうか、そこらへんも明らかにした方が良かったのではないだろうか。そういう、コンセプトが明快でないと言うのか、主体性がないと言うのか、なぜこの作品を撮ったのか、撮らずにはおれなかったのか、が明らかにされていないから、頑張って取材していても、どこかとっ散らかった印象を与えてしまう。」
シズコさん(*****〜☆☆☆☆☆)
「佐野洋子の小説。そう、あの『100万回生きた猫』の佐野洋子。もちろん佐野は小説家ではないから文章の技巧という点では物足りないかもしれず、その点から、エッセイ風にも読める。しかし技巧を凝らした芥川賞作品がつまらない場合もあり、本作のように率直な言葉に心揺さぶられる場合もあるのだ。『みぎのしんぞう』が佐野の幼い頃の記憶を中心とした作品なら、本作は、既に老いた本人が、最も憎んだ母を施設に入れた状況を描く。一体、母と娘(特に長女)というのは、どういった関係性なんだろう、と言うことを、フロイトも書いていないようだと佐野が作中で繰り返し述べているが、とりわけ佐野の場合、母を憎んで育ったことを隠そうともせず率直に語るのだ。料理が上手で整理整頓上手で家事全般に得意だった母、父のことを尊敬しつつも憎しみ同時に愛した母、長男を溺愛し失った母、精神に障害のある兄弟姉妹のことを隠し通そうとした母、社交的で衣装持ちの母、早逝した父に代わって4人の子供全員を大学までやった母、ボケた母、を、一つずつ。」
みぎのしんぞう(☆☆☆☆☆〜*****)
「佐野洋子の小説。そう、あの『100万回生きた猫』の佐野洋子。実は佐野に取材したドキュメンタリー映画を観たことがある。映画の中の佐野は既に高齢で、だからだろうか、自分が取材されていることを忘れて、度々取材スタッフのことを聞いて納得するシーンが印象的だった。しかし高齢とは思えない佐野の言葉は率直で潔い。そんな佐野の幼い頃、戦後、北京から日本(内地〜静岡のどこか?、〜ズラという方言からすると、ドカベンの殿馬みたいな)に引き上げて暮らした数年の記録だが、『100万回生きた猫』と同様、幼い佐野の、曇りのない目で見た戦後の日本の田舎での人間の有様を、率直に描写しているのだ。透き通った目が、極大の暴力に感化された少年たちを見つめ、家父長制の因習に縛られた父の哀れさを見つめ、あらゆる物資不足の中で長男を溺愛し本能的に生きようとする母の姿を見つめ、しらみだらけの自分や、もっとしらみだらけの貧しい友達の髪を見つめたのだ。」
はちどり(☆☆☆☆☆)
「どう考えてもコッチがカンヌでパルムにふさわしい韓国映画だよ、アレよりも。どうやら女性監督らしい、しかも若い、だから外されたか?。カンヌでパルムも然りだが、世の中には個人の力ではどうにもならない理不尽な事が多々ある。ましてや儒教の考え方が染み付いた家父長制の国の韓国であるから、末娘の主人公には最も、そのしわ寄せがやってくるのだ。多感な中学生の頃である。好き勝手に振る舞いたい時期である。それにしても主人公は、なかなかの美少女。2時間を超える上映時間でゆっくりと描かれていくが、ちっとも退屈を感じない。ボケを効かせた映像は昨今の流行りかもしれないが本作には、よく合っていた。ただ、例えば冒頭のシーン(主人公が高層アパートの自分の部屋の、わざと真下の空き家のドアを繰り返しノックする)は、結局どういう意味だったのかは回収されないなど不満もあるが、じゅうぶんな魅力作。」
クラウドガール(****)
「金原ひとみの小説。読んだ事がないと思っていたのだが、読み始めてみると記憶にあるのが不思議だったが途中で思い出した。これは朝日新聞に連載された作品ではないか。当時、新聞の連載小説作家が金原ひとみだと知って小躍りしたものだ。再び読んでみて、やっぱり面白い。ただし、これからますます人口が減少し、超少子高齢社会となりGDPも下降の一途を辿る国において、この作品のような暮らしや生き方や考え方は、できなくなるかもしれない。二人の未成年者は、何の苦労もせず裕福な暮らしができているからこそ、それ以外に夢中になっていられる。しかし二人が、もしも 食べるものが何もない飢餓状況に放り込まれたとしたら、この作品は、どう描かれただろうか。」
ロコ!思うままに(**)
「大槻ケンヂの小説。面白かった。」
あすなろ物語
「井上靖の小説。読んだことがないと思って借りたのだが、読んだことあった。それでも最後まで読もうと頑張ったが、途中で挫折。」
この世にたやすい仕事はない(**)
「津村記久子の小説。面白く読みはしたんだけれどもね。映画化すればいいかも。」
不幽霊ブラジル(**)
「津村記久子の短編小説。表題作他6作品。うーん、短編すぎる。それと、津村作品は、登場人物の性別年齢が、わざとわかりにくくしてるんだとうね、やっぱり。そういう、ジェンダーを超えた云々みたいなことをわざとやっているのかもしれないが、読者とすれば好ましくない。」
窓の魚(*)
「西加奈子の小説。この作品の主題は何なんだろう。4人の男女の恋愛というより致し方なくくっついた男女の模様を、4者それぞれの目線から描くという面白い方法なのだが、方法が主題になってしまっているように感じる。まあ、その通りなのかもしれないが、もっと別の場面を描いてもよかったんじゃないだろうか。」
コロンバス
「いつもの館で。小津に傾倒しているらしい監督の作品らしい。建築の垂直水平に気を使った映像ではある。ちょっとした出来事や心の機微をとつとつと語ろうとはしている。アジアつながりを意識したんだろうね、韓国人が登場する。主演女優も可愛らしい美人だが、どことなくアジア人体型。母親と二人暮らしということもあって、自分の夢につき進むことに、どうしても踏み切ることができずにいる、地方都市で悶々としている若い女子の葛藤。エンドロールなんかも建築的だし、書体もね。だがなあ、煙草吸いすぎなんだよ主人公=かわいい女子のくせに(と言うことを言うといけないのだが)、で、しかも吸い殻を、君の大好きな建築の地面にポイ捨てして靴で踏んづけて消すなっての。それと映像が、これはフィルム撮影なのだろうか?近頃のデジカメのカリカリの画像に慣れてしまったため、なんだかピンボケした画像に見えてしまう。個人的にはね、どうでもいいドラマなんかいらないから、もっと丁寧に建築を見せて欲しかった。」
グレース・オブ・ゴッド 告発の時(*****)
「フランソワ・オゾン作品なので観た。近年、オゾンには裏切られっぱなしだったのだ。いつしかオバサン御用達監督になってしまって、かつてのオゾンが恋しくてたまらなかったのだ。だが、このオゾンは、オゾンらしさをどこかに残しつつも、センセーショナルさや若さや雰囲気に頼った個性ではなく、オゾンらしさが成長した姿を見せられたような気にさせてくれた。何がオゾンらしかったのだろうか、例えばキャスティングだ。オゾン好みの表情で溢れている。例えば映像だ。ボケを最大限に活かした映像なのだが、写真をRAW現像している人なら分かるかもしれないが、撮影設定をナチュラルとか忠実などにして撮影した現像前の最初の画像は、緻密だがとてもあっさりしていて物足りなく感じるくらいなのだが、慣れてくると、そのあっさりした画像の方が、コントラストを強調した画像より良く思えてくるような、そんな映像。そしていつもの、どこか冷笑的なイメージも残されていた。そもそもテーマ自体がそうなのだが、オゾン自身が初期には、青年の同性愛を『風』のようにさわやかな短編で描いてみせている。もちろん、同性愛は犯罪ではなく、本作のテーマとは本質的に異なるのだが。着眼点にオゾンらしさを感じるのだ。それにしても、本作や他のフランス映画を思い出してもても感じるのは、フランス人って、強いなあ、ということ。いや勿論、仮に舞台がアメリカであれば、アメリカ人らしい強さは表現されるだろう、だが、フランス人のそれとは異なるように思えるのだ。」
舞台
「西加奈子の小説。あまり集中して 読むことができなかった。」
i(*****)
「西加奈子の小説。一気に読んでしまった。人類は傷ついている。愚かな人類は、傷つけ合いながら生きているのだ。」
COLD WAR あの歌、2つの心(*****)
「観ていないと思っていたのだが観たら観ていたのを思い出した。最初に観た時は残念な印象が強く、余計な恋愛話などいいから、もっと民族音楽やダンスを堪能させて欲しいと感じたのは、多分に予告編を観た影響だと思う。予告編では、まあ当然のように歌の部分に注目させる作りになっているし、実際その民族音楽やダンスのシーンが本当に美しいのだからしかたがない。だが今回、そういった予備知識無しに観たのがよかったのだろう。恋愛の部分も素直に受け入れられ、東西冷戦に翻弄された愛、という側面からも楽しんで観ることができた。ただし、そのためには88分はあまりに短い。政治に翻弄された人間を、恋愛を縦軸に描くのなら、その機微をもっと丁寧に描写すべきで、時には心理状態などを、もっと長回しで責めたりすべきなのに、シークエンスの繋がりが先を急いでしまっている。説明も不足しており、だから観ていて『あれ?』となる時があるのだ。」
人形(*)
「1968年のポーランド映画。153分もある長編大作で、オープンセット?や衣装なども完成度高く作られている模様で、予算もしっかり掛けてあるのだろう。ポーランドでは有名な文学が原作のようだ。」
ドロステのはてで僕ら(***〜**)
「いつもの館で。ひょっとすると例のゾンビ映画の二匹目の土壌を狙ったのか、とまれ、何よりも、インデペンデントで製作している彼らの息吹がスクリーンから伝わってきて楽しい。役者はみんなお芝居系の人達だろうか、演技がクサイのもまた良し。」
どこへ出しても恥かしい人(***〜**)
「いつもの館で。友川カズキというミュージシャンに取材したドキュメンタリー。いかにも二枚目の整った上品な顔立ちでハゲてもおらず、ちょっと外国人風とさえ言ってもいいくらいなのに、酒・煙草(しかもわかば?)・競輪に溺れ、食事中はクチャクチャチッチッ言わせ、下には下がいる、が座右の銘の、フォークソングブームを築いた人物の一人。歌唱方法が、演歌、いや、浪曲風の独特の節回しが美しいが、ちょっと、宮川左近ショーを思い出させる。なまじ才能があったばかりにフォークソングの雄は、時代が変わってもそのままであり続けざるを得ず、老いた時その栄光とともに残酷な結末に、ただ呆然と立ち尽くすしかないのだ。ギャンブルに溺れ呑んだくれ斜に構え『どこに出しても恥ずかしい人』と自らを揶揄しても、ただし彼には音楽があるから誇りを失わないのであって、ちょっとずるい。」
仮面の告白(*****)
「三島由紀夫の小説。あまりにも有名な作品だが、恥ずかしながら初めて読んだ。三島についてはどうしても、右翼思想の持ち主で割腹自殺した人物ということから、街宣車と同じく危険なイメージがあり近寄りたくない気持ちが働き、ずっと遠ざけてきたのだが、しかし本作品には驚いた。
憂国(***)
「三島由紀夫の短編。三島作品は、高校生の頃に1〜2冊は文庫本を持っていたのだが読んだ記憶があいまいなのと、三島に関するドキュメンタリー映画をみたことから興味が湧き、今回、読んでみることにした。さて、この作品で憂国の士とは誰を指しているのだろうか。当然、決起しクーデターを起こした側で、主人公中尉の友人たちの方であろう。主人公は新婚であったため、クーデターのメンバーから外されたのだ。主人公も本当はクーデターに加わりたかったはずの憂国の士で、不運にもそれができず、意に沿わない反クーデター側の命令に従い、友人を攻撃しなければならない苦痛から逃れる為に最後の決断をした、と言うことなんだろう。だがなあ、短編とは言え、主人公の思想が伝わる描写は一切ないから、最初に書いたことは想像でしかない。しかし三島にとっては、そもそもクーデター側(=皇道派)が本来、正しかったのだ、という前提があるのかもしれない。だから主人公の思想を今更、説明する必要などないのかも。だがなあ、それでも、この最後の決断は、読んでいて心地よくはないし感動的でもない。短編を数本、読んだだけだが、三島作品には『美』に対する意識が強いように感じられた。この最後の決断も、一つの美学ではあろう。だが現実逃避でもある。人間には様々な苦しみや懊悩があるだろう。病気で苦しんでいる人は勇敢にも最後まで立ち向かっているのではないか。それに比べて主人公は、おのれの美学に酔いしれているだけではないなだろうか。後から掃除する人の迷惑でさえある。」
遠乗会
「三島由紀夫の短編。三島作品は、高校生の頃に1〜2冊は文庫本を持っていたのだが読んだ記憶があいまいなのと、三島に関するドキュメンタリー映画をみたことから興味が湧き、今回、読んでみることにした。」
詩を書く少年(***)
「三島由紀夫の短編。三島作品は、高校生の頃に1〜2冊は文庫本を持っていたのだが読んだ記憶があいまいなのと、三島に関するドキュメンタリー映画をみたことから興味が湧き、今回、読んでみることにした。」
海と夕焼け(*****)
「三島由紀夫の短編。三島作品は、高校生の頃に1〜2冊は文庫本を持っていたのだが読んだ記憶があいまいなのと、三島に関するドキュメンタリー映画をみたことから興味が湧き、今回、読んでみることにした。」
牡丹
「三島由紀夫の短編。三島作品は、高校生の頃に1〜2冊は文庫本を持っていたのだが読んだ記憶があいまいなのと、三島に関するドキュメンタリー映画をみたことから興味が湧き、今回、読んでみることにした。」
デッド・ドント・ダイ
「ジム・ジャームッシュ監督作品なので観た、のだが、もう、クエンティン・タランティーノもそうだが、彼らは自分の好きなことしかやらないのだ。」
うたのはじまり(***〜****)
「生まれつき難聴のため聾唖となった主人公は、それゆえに音楽が理解できず苦痛でしかなかった。だが結婚し子供が生まれる。息子との入浴中に初めて発した我が子の言葉『だいじょうぶ』が聞こえず、取材スタッフに知らされて、それと知った主人公が嬉しさのあまり音程のおかしな『大丈夫の歌』を歌い出す。あんなに嫌悪していた歌を無意識に子供のため口ずさんでいたのだ。やはり聾唖のパートナーも、産みの苦しみの後に我が子の顔を見て『アー』(濁点がついた)と叫ぶ。それらは音痴で滑稽かもしれない。しかし出産シーンも全てあからさまにさらけ出して発する喜びの声とも言えぬ『音』とともに人間が本能的に発する何かが神々しいのだ。主人公や、おそらくパートナーも写真を、また怪しげな隣人?は音楽を、と言うように、例えハンディーキャップがあろうとも、芸術が彼らの生きる支えになっている事実が見て取れる。芸術に没頭することで自らの誇りを取り戻すかのように。さて1歳半に成長した息子は、やはり両親がともに聾唖のせいだろうか、手話は覚えても、どこか口数が少ないように見受けられた。そのことを、取材するうち友人となった監督も心配したのだろう。だがそんなことは杞憂だ、この子はきっと力強く飛び立っていくだろう。」
気まぐれバス(***)
「大昔に買って読んでいた文庫本だが、ほとんど忘れていた。なんとなく当時は、ニキビに共感しながら読んでおり、ニキビの思いが成就しないで、なんであんなオッサンとー、スタインベックよー、などと思っていた気がする。さて再読してみて、まあ確かに『怒りのぶどう』や『エデンの東』のような大作と比べると短いし、読み始めて最初のうちは、性に関する表現の部分は無くても良いのではないか、と感じていた。極限状態に置かれた人間の有様を表現するだけでいいではないか、と。しかし『エデンの東』でも性に関する表現はあったわけで、人間を描写する以上、欠かせない部分であることは、言うまでもないことなのだし、スタインベックにとっても、表現したい関心事の一つだったのだろう。ところで原題は『THE WAYWARD BUS』で、辞書を引くと「WAYWARD」には確かに「気まぐれ」の意味もあるが、どちらかと言えば「強情な」と言った方が近い感じがする。『気まぐれバス』とやってしまうと、どこかユーモラスなイメージがついてしまうのではないだろうか。もちろん、ここで言う「気まぐれ」とは、登場人物達の心を指しているわけだが。」
帽子箱を持った少女
「1927年のソ連映画を1950〜60年代に手直しされてBGMも付けられたようだ。ドラマが下敷きにはなっているものの、本来、サイレントのスラップスティックコメディで、弁士と楽隊によるガチャガチャした中で、ワハハハハとゲラゲラ笑いながら観られていただろう作品で、初期のチャップリンにも通じる。ただしチャップリンの『キッド』が1921年なので、それに比べると、、、。それにしてもよく分からなかったのは、モスクワの住宅事情。」